ベトナム戦記 開高健著 朝日新聞社

ベトナム戦記 
開高健 著

朝日新聞社
1990年10月20日 第1刷発行

読売新聞の特派員であった日野啓三氏が、本書の最後に解説「限りなく“事実”を求めて」と題して記された文章を引用すると、

 この本は一九六四年末から六五年初頭にかけて、開高健がサイゴン(現ホーチミン市)から「週刊朝日」に毎週送稿したルポルタージュを、帰国した開高自身が大急ぎでまとめて緊急出版したものである。
 フリーカメラマンの岡村昭彦が岩波新書の一冊として出した「南ヴェトナム戦争従軍記」とともに、ベトナム戦争の現場で日本人が書いた最初の記念すべき書物であり、日本国内でベトナム戦争への関心を一挙にかきたてた歴史的な書物でもある。

とのことです。ベトナム戦争のルポルタージュとして称賛される本書ですが、読み進めていくうちに、違和感を少し覚えます。ベトナム人の“七つの顔”の章では、自身が日本の小説家と自己紹介すると、多くの知識人が教えてくれたという艶話が記されていたり、他のルポルタージュでは必ず記されている、戦争の状況に関するアメリカ顧問団(1962年2月設置)などからの情報の収集に関する詳細な記載が乏しい事についてです。確かに、南ベトナム政府が弾圧してきた仏教徒の反政府デモなど、仏教徒側の話はよく聞き、多く記されています。しかし結論として、

『人民のために働いてくれる政府』を求めて現在の政府を否定する情熱は激しいけれど、解放戦線と妥協、握手、または平和共存については、みんな全的否定、または悲観的、かつ、逃避的な意見しか述べないのである。(中略)私にとっては不思議であった。何故かわからなかった。

と記し、仏教徒が北ベトナムにおける例を挙げ、共産主義は宗教活動を圧殺し去ることを開高氏に説くと、

私は北ベトナムについての事実を知らなすぎるのである。

と、ベトナム戦争の本質で、一番重要な点を曖昧にしています。1960年12月20日設立の『解放民族戦線』が、1959年5月13日の北ベトナム労働党の第15号決議によって樹立され、「人民改革党」と名乗り実態を隠ぺいしていた「北」党の南部中央局の直接指示を受けていた事実を、仏教徒は共産主義への鋭い警戒と疑いの中で既に気が付いていたのかも知れません。後になって開高氏はべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の設立時に中心的役割を果たしたにもかかわらず、その運動から距離を置くようになったのは、反米左派勢力に強く反発したからとされていますが、北ベトナムの事実を知ることとなったからでしょうか。

最後に、アメリカ軍の手配で、ベンキャット (ベンカト、Bến Cát、Lai Khê) 基地まで行きベトナム共和国陸軍(南ベトナム政府軍)に従軍し、サマック作戦に同行し九死に一生を得たことが記されています。ベンキャットの現在は、Vietnam War Travel – Discovering the hidden places from the Vietnam War の Lai Khe Base Campの記事

Along route QL13, also known as Thunder Road, there were a string of bases during the war. One of the most important ones was Lai Khe, which served as base camp for the 1st Infantry Division from 1965-1972 along with several other American units over different periods of time. The base camp was the headquarters for the 3rd Brigade with the division headquarters not far away in Di An. The other brigades were stationed at Quan Loi, Phuoc Vinh and Dau Tieng. It was a well chosen site, right on the highway, and together with its large runway and relative proximity to Saigon, supplies could be brought in fairly easily via both road and air. Another 70 kilometers up the road, a Special Forces Camp was located in Loc Ninh.

Being located so close to Saigon meant it was an important part of the city’s outer defenses as PAVN forces later in the war would push down QL13 during its attacks. At one point, it was one of the most active areas when it came to PAVN and VC activities. Being so close to the Iron Triangle, it also meant that many operations were launched from the base even as it was a constant target for enemy attacks.

と記され、現在の周囲の様子の映像も見ることが出来ます。サマック作戦とありましたので sa mạc (砂漠)作戦かと思いきや、読み直してみるとベンキャットから北方の地名の様です。開高健記念館の web site での、企画展「開高健とベトナム」の地図では、10キロ北方で13号線より西の様です。Lai Uyên の辺りのはずですが、Xa Mac などの地名で Google map 等で探してみても見当たりません。

ベトナム戦争当時のサイゴンでの開高健氏をよく知ると言われる仁平宏氏が、この「ベトナム戦記」について、ある web site で論評されています。

開高は、帰国直後の足で箱根に一週間籠り、猛烈な想像(妄想)力を発揮して殆ど徹夜作業で編集して緊急出版したものだ。編集記者もその一週間ぴったり開高に張り付いた。開高自身も「ベトナム戦記」は“真っ赤なニセモノかどうか分らなくて書き上げた”と自ら語っている

残念ながら、今となっては開高健氏の反論を聞くことが出来ません。

下の写真は、開高健氏も見たであろう、マジェスティックホテルサイゴンから見た夜明けです。

 

開高健ルーム @ Hotel Magestic Saigon マジェスティックホテル サイゴン

「Hotel Magestic Saigon マジェスティックホテル サイゴン」にチェックインして部屋に荷物を置くと直ぐに、「開高健ルーム」が空いていれば見学させていただきたい旨をフロントでお願いしてみました。幸いにも宿泊客が無く、案内して下さりました。部屋の前のプレートには 本名の Takeshi ではなく Ken Kaiko と記されています。室内には開高健氏の写真が飾られています。もちろん、当時とベッドの種類や配置も異なり、最近また大きなリノベーションを済ませたばかりとのことです。

Ken (Takeshi) Kaiko’s Room
開高健ルーム
Hotel Majestic Saigon
マジェスティックホテルサイゴン