インドの台所 小林真樹著 作品社

インドの台所

小林真樹著 作品社
2024年7月10日 初版第1刷発行

以前からヒンドゥー教徒の台所は神聖な場所で他人は入れないという話を重ねてネパール人から聞いていましたので、どうやって入ることができたのですかと小林さんに尋ねたく思っていました。そこら辺りの事情も記されていました。

カメラを向けると皆さん笑顔で応じてくれ、民家も外観までは好意的に見せてくれる。しかしいざ内部の台所を見せてほしいというと「部外者を入れるのは神様に怒られるから」と異口同音に断られる。独特のヒンドゥー教的宗教観に基づく禁忌である。

巧みなコミュニケーションを尽くされたり、時にはカメラを渡して中の台所の写真を撮ってきてもらったりもされたとのことです。

文中でポンニライスについて簡潔にまとめておられます。

 ポンニライスは台中65(Taichung65)とMyang Ebos 6080/2 という品種の交配種である。この台中65は戦前、日本の統治下だった台湾で、対日輸出用に熱帯気候の台湾でも育つジャポニカ米として品種改良されたものだった。それまでインディカ米のみを育成していた台湾も、現在ではジャポニカ米が主流になっている。
 やがて戦後、熱帯気候に強いこの台中65が、独立直後で食糧事情の悪かったインドや東南アジアにもたらされ、現地種とさらなる交配・品種改良がほどこされた結果、現在南インドで広く食べられている単粒種となった。

以前のX(Twitter)上での楽しいやり取りを思い出しました。

→「ネパール、インドのお米の閑話 Taichung 65 – Mahsuri – Ponni」

→「ダルバートのバートはバスマティ米という意味ではありません」

 

 

 

 

交感する神と人 ヒンドゥー神像の世界 三尾稔編 国立民族学博物館発行

交感する神と人 ヒンドゥー神像の世界

三尾稔編 国立民族学博物館発行 2023年9月14日

国立民族学博物館の特別展『交感する神と人 ヒンドゥー神像の世界』に出かけました。図録も販売されていましたので買い求め、帰宅後しっかりと復習しました。

第1章 神がみの世界へのいざない
第2章 神がみとの交感
第3章 交感の諸相
第4章 ときの巡り

で構成され、実行委員の方々による13のエッセイも掲載されています。

『みんぱくウイークエンド・サロン- 研究者と話そう』、「神がみを演じる – ネパールの仮面舞踏」も覗いてみました。

ネパールのカトマンズを故地とするネワール人は、母神やシヴァの憤怒相バイラブの守護神を崇拝し、仮面舞踏によって神がみを顕現させます。カルティク・ナーチ演劇祭(北田)、バイラヴ舞踏とナヴァ・ドゥルガー舞踏(南)を紹介し、その多様性や魅力について対談します。

お話を聞かせて頂いた中で、興味がわいたのは「ポカラのバイラブ舞踏は以前は12年に一度行われていたのが、6年に一度に変わった」という点でした。日時にこだわるヒンドゥーの宗教儀式において、簡単にその日時を変更できるのか疑問に思ったからです。

12年に一度のお祭りですぐに思いつくのが、Rato Machhendranath Jatra です。→「Rato Machhendranath Temple ラトマチェンドラナート寺院(Bungamati)」

その他にも The Unique 12 Years Festivals of Nepal | Buddha Air には、12年毎に祝われるお祭りとして、Makar Mela of Panauti、Barha Barsey Mela of Harisiddhi、Nardevi Jatra、 Barha Barsey Jatra of Machchhendranath、Barha Barsey Mela of Godawari が紹介されています。

講師の南真木人教授によると、お金がかかるお祭りを以前は 12年に一度しか催せなかったが 6年に一度催す余裕もできた面もあるのではとのお話でした。

国立民族学博物館内のレストラン、以前は各国料理も登場していました →「ネパーリー・サーダ・カーナ ランチ @ レストラン みんぱく (吹田市)」 が、経営が変わったのか、一般受けするメニューのみにかわっています。カレーライスのとんかつトッピングを頂きました。

国立民族学博物館

吹田市千里万博公園 10-1

https://www.minpaku.ac.jp/

私と世界をつなぐ、料理の旅路 - 14人の「私が料理をする理由」LLCインセクツ

私と世界をつなぐ、
料理の旅路
- 14人の「私が料理をする理由」

LLCインセクツ編、発行
2023年5月4日発行

「インド家庭料理 vanam ヴァナム」さんへ伺った際に買おうと決めていた本書を手にして、一気に読みました。トップに落合さんの記事が掲載されています。

「はじめに」より抜粋です。

本書に登場する女性たちは、世界各地を旅したり、その国へ暮らしたりして、自分のやり方で料理に触れてきた。レストランや料理教室、家庭の台所など、、、、、さまざまな場で料理を見て試し、自分の一部にしてきた人たちだ。それは単に新たなレシピを知るだけでなく、その土地の伝統や習慣、人に出会うことで自分を知る人生の要となった出来事でもある。ある国のひと皿を手がけることは、自分にとっての道を知ること同時に、気づかなかったルーツを知ることでもある。

彼女たちの料理を通して、おいしさとそこから広がる物語を味わおう。多様な料理を知ることはきっと、世界の国々を旅できるだけではなく、それぞれの人生を旅することもできるのだから。

インド料理、インド料理、ベトナム料理、台湾料理、メキシコ料理、世界のごはん、スウェーデンの郷土菓子、ロシア・ジョージア料理、ポーランドの郷土菓子、イギリスの郷土菓子、ポルトガル料理、イタリア料理、イタリア郷土菓子、モロッコ料理に魅せられた14人です。

落合さん、お店の Instagram で本書について少し触れられています。

食だけはバーチャルに預けられず肉体をもって対峙するしかないものです。
食の選択は非常にパーソナルな問題だということもインドでは感じます。地域、宗教、貧富、カースト、家族構成、嗜好。何を選び食べるのかはまず始められる自分だけの旅。世界で食べて関わって身体性をもって自分ごとにしてみる機会がどれだけの財産になるのかを知っています。誰のものでもない自分とその人生を支え彩るのは食です。
日本も含めたアジアへの興味は尽きません。

お店で頂ける美味しい料理の数々は
→「ヴァナム vanam (奈良市矢田原町)」

インド家庭料理 vanam ヴァナム

奈良市矢田原町 743

https://vanam.therestaurant.jp/
https://www.facebook.com/vanamspice/
https://www.instagram.com/vanam_nara/

ネパールの碧い空 草の根の人々と生きる医師の記録 岩村昇著 講談社

ネパールの碧い空
草の根の人々と生きる医師の記録

岩村昇著
講談社
昭和50年7月10日 第1刷発行

1962年(昭和37年)1月から、結核の診療活動に従事するためにネパールに旅立った著者の、約14年間の活動が記されています。活動の拠点はポカラの南西に位置するタンセン市のユナイテッド・ミッション・タンセン病院です。当時のネパールの公衆衛生事情、結核のみならず天然痘やコレラ、赤痢などの状況、乳幼児死亡率や医師の数まで、当時のカースト制度の実際など、興味深いことが沢山記されています。第四章「私は便所を作ってまわった」では、コレラや赤痢などの伝染病流行の大きな要因となっていた「便所が無いということ」を改善しようとする「公衆衛生医」の苦悩が取り上げられています。

ネパール探究紀行 長沢和俊著 角川新書

ネパール探究紀行

長沢和俊著
角川新書
昭和39年4月30日初版発行

著者のあとがきによると、昭和38年4月から11月にかけ、東海大学西部ネパール学術調査隊が行った歴史学的調査と民俗学的調査の大要を簡潔にまとめられたのが本書とのことです。G. Tucci; Preliminary report on two scientific expedition in Nepal, Roma, 1956 に、かつてマㇽラ王国という強大な王国があったと記されており、その遺跡を調査することが目的のひとつだった様です。

インドのテクニヤからネパールに入り、ドゥッルからジュムラにかけ、またマㇽラ王朝の王都であったとされるシンジャがフィールドワークの場であり、マㇽラ王朝とその後一体となったパーラ王朝の歴史的考察が詳しく記されています。

民俗学的調査とあるように、当時の西ネパールの食生活についても記されています。

西ネパールではドゥッル、ジュムラのような米作地帯は、一応男性は米食らしいが、その他の山間地帯では、おおむね小麦粉(アタ)によるロティ(いわゆるチャパティ)が主食である。アタまたはとうもろこしのロティ数枚とポテトのカレーが、年間を通じて最も多い食事であるという。夏季はそれでも、二、三の野菜も手に入るが、その他は四季を通じて、毎日ロティとポテトカレーである、ロティにはコルサニといって、唐辛子と塩をまぜたものをつけて食する。このほか牛や水牛を飼っている家では、ヨーグルトや脱脂ヨーグルト(モイ)を呑む。とうもろこしは非常に用途が広く、ロティのほか、ポプコーン、ディド等に使用する。ディドは粉末コーンの濃厚なポタージュスープであるが、これは西ネパールではあまり用いられない。畑仕事や放牧の時には、ランチとして、大麦粉を煎ったツァンパかポプコーンを持参する。もちろん、朝食の時作ったロティを持っていくこともある。

果物としてはドゥッルでは、バナナ(ケラ)、桃(アル)、梨(ナシパテー)がとれ、ジュムラでも桃、りんご等がとれるが、いずれも品種改良が試みられていないので、小粒で味も良くない。この地方では胡瓜(カングロ)も果物として扱われ、輪切りにしてコルサニをつけて食する。

 

ヒマラヤの寺院 ネパール・北インド・中国の宗教建築 佐藤正彦著 鹿島出版会

ヒマラヤの寺院
ネパール・北インド・中国の宗教建築

佐藤正彦著
鹿島出版会
2012年1月30日 第1刷

工学部建築学科の教授であった著者が、1982年からネパールを何度も訪れ寺院建築の詳細なフィールドワークを行い20余年の研究成果の論文をまとめたものが本書です。

構成は
プロローグ なぜ寺院建築なのか
第一章 ネパールの寺院建築
第二章 ネパールの建築の源流を探る―北インド建築
第三章 中国建築とのつながり
第四章 カトマンズの寺院建築
第五章 パータンの寺院建築
第六章 バドガウンの寺院建築
付録資料
エピローグ
からなり、旧王宮、広場、共同水場、休憩所、住居、仏教僧院、郊外の寺院、神々と仏、寺院と動物、寺院と植物、市場、職人街、教育事情、伝統建築の崩壊、修復の現状、とそれぞれ題された 15のコラムが挟まります。

第一章で、ヒンドゥー教と仏教、ラマ教の遺構が混在するというネパールの特徴について、人々の信仰を紹介されています。

ネパールでは人によって、それぞれの寺院の重要度、寺院を参拝する回数、寺院に祀られたそれぞれの神の地位、位置づけや権力など、さまざまな特徴により寺院の意義は異なる。動物の神パシュパティナートとして現れたシヴァ神は最も神聖なヒンドゥー教の神であるが、このシヴァ神は違った場所では別の意味をもつ。つまり、他所に祀られたシヴァ神がたとえパシュパティナートの像に似ていても同じ効力を必ずしもふるうわけではない。人々は、それぞれの諸願成就のために、それをかなえてくれる神々を求めるのである。

神仏混淆についても、パシュパティナート寺や

パシュパティナート寺には、ネパールの宗教的な意義を考える場合に、非常に興味深い現象がある。パシュパティナート寺は、一年のうちのたった一日のみではあるが、ご神体をチェンジするのである。(中略)パシュパティナート寺はカトマンズ盆地内のヒンドゥー教徒たちの聖地であるが、その本尊のシヴァ・リンガは、一年のある一日だけ仏の冠を被せられ、仏教徒たちの礼拝を受ける。これによってシヴァ・リンガの世界観は、最も直截的な方法で仏教の世界観に逆転されてしまう。この不思議な伝統は、二つの世界観を表裏一体の関係に統合する。このような事柄はネパールでもほかに例がない。

セト・マチェンドラナート寺を例に分かりやすく解説があります。

セト・マチェンドラナート寺は、仏教徒がセト・マチェンドラナートを観世音菩薩と考え、ヒンドゥー教徒は恵みの雨をもたらすシヴァの化身と考え、両教徒から崇められている。アーチ型の入口は二頭の金属製の獅子で守られ、中庭の高い石柱の上には天蓋付きで小さな仏陀像が祀られ、寺院の正面入口の方立の足元礎石上に観世音菩薩立像がある。礎石に獅子頭も付く。中庭には数多くの小仏塔や小祠もある。これらのことからも寺が仏教寺院であることを十分に知ることができるが、主祭神は雨とモンスーンの神マチェンドラナートで、ローケーシュヴァラという名を介して観世音菩薩がシヴァ神とつながっているので、ヒンドゥー教の神でもあるのだ。

建築学の観点からの本書での記述を簡単にまとめると

【平面構成】カトマンズ、パータン、バドガウンなどの寺院の一階平面は、様式(形式)や規模などによって IからⅨ類の九つに分類されるとのことで、各論の項ではすべての寺院の平面図が添えられています。

【構造デザイン・材料】寺院建築は、構造デザインや材料からみて大きく四つに分類されます。
『シカラ(高塔)様式建築』石造に多く残り、カジュラホーなどで発展した様式で、それらインドから直接強く影響を受けた建築と考えられ、パータンのクリシュナ寺に代表される。
『ネワール・パゴダ様式建築』金銀細工をはじめ木彫りなどに優れた技術を持つネワール族が造営に携わってきたもので、最も屋根数の多い五重屋根の寺院はニャタポーラ寺。
『イスラーム様式建築』北インドのムガル帝国以降の影響を強く受けた、レンガ造の平屋建てに多く、バグワティ寺やパシュパティナート寺に代表される。
『ストゥーパ(仏塔)様式建築』インドの土饅頭型とは異なり、何世紀もかけてブッダと仏教原理を表現する複合的なものに進化したもので、スワヤンブナート仏塔とボーダナート仏塔がその代表。

【装飾】ピーコックウインドーに代表される窓、トーラナやトーラナアーチ、方杖、斜め格子、壁面の腰回りに装飾としてみられる蛇身とナーガ(蛇神)信仰、屋根のガジュー(カジュル)、ドバジャ(バター、バターカ)、望楼などについても解説されています。これらの装飾についての過去の記事は →「Jestha Varna Mahavihar Min Nath Temple (Min Nath Temple) ミンナート寺院 (Patan)」 および →「Changu Narayan チャング ナラヤン」

第二章では著者の専門でもあるインド建築が、アジャンター第十九窟、エローラ第十窟、カジュラーホーのラクシュマーナ寺、マハーバリープラムの五つの寺院などを例に、ネパールとの繋がりも含め詳しく記されています。

第四章から六章では、250寺院について、建立年、修復年、実測した平面図、構造・様式、神室、細部、備考、各項目が書かれています。

15のコラムも読み応え十分です。

エピローグで、著者は以下のような自説を展開します。

ネパールのネワール・パゴダ様式建築の源流を赤道直下に位置するインドネシアの伝統的木造建築に次のような理由で求めたい。
①インドネシアの伝統的木造建築には、柱上に組物の発展がなく、簡単な方杖で軒を支える。
②インドネシア・ニアス島の伝統的木造民家は、床上の居住部分を外部に斜めに張り出して、格子を前倒しに付け、内側にベンチを設けている。
③インドネシア・北スマトラのリンガ村(バタックカロ族)の伝統的木造集会所は、屋根の頂部に上れない望楼を載せている。サモシル島のヌマタンプルマ(シマルングバタック博物館)の民家の頂部にも望楼が載る。
④貫の使用量が比較的少ない。
⑤ネパールのネワール・パゴダ様式建築は、二階より上に上れないものがほとんどで、バリ島の蜜櫓式木造塔に類似する。
⑥ネパールで著名なピーコックウインドー(孔雀窓)と類似するインドネシア国鳥ガルダウインドー(ジャワクマタカ窓)の技法がある。

この説の結論としては、

仮にこれが認められれば、ネワール・パゴダ様式建築の図式は次のようになる。
インドネシアの伝統的木造建築→インド・ケーララ州→インド・ヒマーチャル・プラデーシュ州→ネパール・ネワール・パゴダ様式建築

としています。また、日本の仏塔建築のルーツについても、以下のような自説を提唱しています。

一方、私はファーガソンが指摘したインド・ケーララ州を源にすることも捨てがたいと思っている。とくに、我が国の仏塔を考えると、「インド・ケーララ州→インドネシアの伝統的木造建築→我が国の仏塔」という図式が成り立つのではないかと想像をたくましくせざるを得ない。七世紀末に建立された世界最古の木造塔である法隆寺五重塔には、心柱がある。心柱構造の木造塔は、中国にもネパールのパゴダ建築にもない。しかし、インドネシア・バリ島の木造塔は心柱構造である。ジャック・デュマルセは、東ジャワのチャンディ・スロウォノの東壁北東隅に現れる一本柱で屋根(三重)を支える(心柱構造)のは、インド・ケーララ州東側に隣接するタミル・ナードゥ州マハーバリプラムにある八世紀の岩石寺院にみられる(佐藤浩司訳『東南アジアの住まい』)と指摘している。かつて国語学者の大野晋氏は、インド南部のタミル語と日本語が大変類似していることを著している。私は我が国の建築を考える際、インド洋、南シナ海の海上の道を、中国大陸横断のシルクロードとともに考慮すべきと思っている。

 

ベトナム戦争の「戦後」中野亜里編 株式会社めこん

ベトナム戦争の「戦後」

中野亜里編
株式会社 めこん
2005年9月25日 初版第1刷

2022年は2月24日にロシアによるウクライナ侵攻、中国が西側勢力によって仕組まれた「茶番」だとして公表しないよう求めていたにもかかわらず、国連が8月31日に中国・新疆地区で「深刻な人権侵害」が見られるとして、中国を非難する報告書を公表したりと、共産主義勢力の姿勢が明らかになった年でもありました。これらは今に始まったことではなく、ベトナム戦争でソ連や中国がどのような戦略を用いたかを思い起こせば、まさしく『歴史は繰り返す』を証明した年でもあります。ベトナム戦争に関するいくつかの書籍をご紹介してきました →「本 ベトナム戦争」が、本屋さんで見つけ買い求めていた1冊(2005年刊行ですが)をご紹介いたします。

メコン社さんの web site では本書の紹介として、以下のように記され、

(前略)ベトナム戦争はベトナムだけではなく、世界中に大きな影響を残しました。しかし、日本人は南ベトナムの民族解放戦線にやたらに肩入れしたので、そのベトナムがカンボジアに侵攻したらわけがわからなくなりました。アメリカはいまだにベトナム戦争後遺症をひきずっています。そして、肝心のベトナムは「戦後」、いったいどうなってしまったのでしょう。
 どうも、日本の「ベトナム世代」は思い入れで目が曇り、事態をきちんと見ることができないようです。そこで、いずれもベトナム世代以降の、在日ベトナム人を含む若手研究者、ジャーナリストがベトナム戦争の「戦後」を考えなおしてみようということになりました。全く新しい刺激的なベトナム論、ベトナム戦争論です。

内容構成は以下のようになっています。
第1部 ベトナムの戦後
1 ベトナムの革命戦争
2 記者が見た英雄たちの戦後
3 統一ベトナムの苦悩――政治イデオロギーと経済・社会の現実
4 南部の貧困層と国際NGO活動に見る戦争の影響
5 ベトナム人民軍の素顔
6 人々の意識を荒廃させた経済・社会政策――ドイモイ前の「バオカップ」制度
7 抗米戦争と文学

第2部 ベトナムの戦争と関係諸国
1 日本から見たベトナム戦争とその戦後
2 アメリカにとってのベトナム戦争――今も続く「泥沼の教訓」論争
3 周辺諸国にとってのベトナム戦争
4 ベトナム革命戦争と中国
5 国際共同体の一員として

第1部 第1章では戦争の概略のおさらい、それを踏まえて第2部 第1章で当時の日本人がなぜ反戦に熱狂したかが記されています。他でも指摘されているように、南ベトナム解放民族戦線を、南ベトナム『民族解放』戦線と表記し、人々の意識を操作し、ことさら反米を煽ったマスメディアの役割も大きく、以下のごとく記されています。

ベトナム人に寄せられた共感の理由には、同じアジアだという地理的、文化的な近さもあげることができる。新聞紙上などで、「同じ稲作民族」であるとか、`同じ黄色人種であることがしばしば言及され、「アジアのことはアジア人の手に」といった、今から見れば人種主義とも、第二次大戦以降封印されてきたアジア主義的心情の噴出とも取れるような主張が行なわれた。
 こうした主張が登場した背景に、六〇年安保からの流れである反米ナショナリズムの影響があったことは見逃せない。岸内閣が改正安保条約を国会での強行採決で成立させたことで六〇年安保は挫折に終わったものの、反安保、反基地のスローガンはベトナム反戦にも引き継がれていた。反戦運動に参加した日本人がたちは北ベトナムの「抗米救国」のスローガンをわがことのように叫んだ。

戦争当時は解放民族戦線に肩入れをした日本人は、戦後、彼らがソ連が後押しするハノイの北ベトナム共産党によって無視される立場におかれたこと→「裏切られたベトナム革命 チュン・ニュー・タンの証言」には全く関心がありません。

サイゴン政府崩壊後、政権移譲に関する施策は党政治局がすべて決定し、南部に基盤を持つ党中央委員のヴォー・ヴァン・キェットを通じて指令が出された。南部の政府機構の各部門には、北ベトナム政府の当該部門の官僚が配置され、労働党の要員が重要なポストについた。党は臨時革命政府と解放戦線、およびその他の政治勢力の今後の役割については、何ら明確にしなかった。独立で中立の南ベトナム国家建設の構想は立ち消えとなり、非共産主義勢力を統合してきた指導部は、もはや不要な存在とみなされた。

戦後かなりの年数が経った後に及んでもことさら「解放民族戦線」を持ち上げるのは滑稽であり、諸問題の根源を見ていません。

ベトナム戦争当時、民衆の戦いに強い共感を寄せた日本人だが、このように党と民衆とが乖離したベトナムの現状にはほとんど無関心に見える。そして、それとは対照的に「民衆の戦争」を担った南ベトナム解放民族戦線へのこだわりは今も折に触れて示される。

解放民族戦線は、労働党(のちの共産党)が社会主義、共産主義を推し進める上での対外的な正当性を担保するものであって、

党の政治イデオロギーでは、民族解放の後に社会主義に向かうことは歴史の客観的な法則で、闘争の過程で解放戦線、平和勢力連合、臨時革命政府などを設立したことは、革命の正統性と内外の支持を獲得するためだった。そして、これら組織の軍事・政治闘争と外交闘争における功績も、労働党が指導する革命の成果として語られるようになったのである。

目的が達せられたあかつきには、その意義は矮小化されてしまいました。

ベトナム共産党にとって「戦争を指導して独立を達成した」という党の自己イメージは、一党支配の正当性の基盤となる絶対的なものであり、党が解放戦線に独立した役割を分け与えようはずがない。ベトナム共産党のホームページで「解放戦線」の定義を探すと、「党中央委の第一五号決議の精神に基づいて設立され、労働党南部委員会の直接の指導を受けた」となっており、解放戦線に何の独自性も認めていない。ベトナム百科事典編纂指導国家委員会編『ベトナム百科事典』に記述されている「解放戦線」の項目も、解放戦線が軍事力として実際に戦場で果たした役割にはいっさい触れていない。こうしたベトナム共産党中心の歴史解釈が公式なものとして存在し続けていることは、日本では十分認識されていない。また、解放戦線や臨時革命政府が標榜した、敵味方、南北の差別のない社会、多様な考え方を持った人々を糾合した社会を実現できなかった、というベトナムの戦後が抱える影の部分にも、注意が向けられることは少ない。

ベトナム戦争とは、帝国主義者との闘いというのは表向きで、単一のイデオロギーで強権支配しようと同じ民族の多様な思想・信条を排除するためのベトナム人同士の戦いであったという点に目をつぶりすぎたのが「戦後」の問題点の始まりかもしれません。

革命勢力は、世界人民が自分たちを支持しているという信念に支えられて戦った。それは、グローバルな革命勢力の先鋒として帝国主義者と闘い、世界人民のために犠牲を払っているという自意識でもあった。しかし、そのために戦後も、独立国でありながら外国援助に依存することを恥じず、むしろ正しい戦いの犠牲者を世界が支援するのは当然という意識が定着した。
 ベトナム革命に共感を寄せる日本人は、ベトナム人の上にアメリカ帝国主義の犠牲者の姿を見出そうとする。しかし、戦時中と戦後の混乱期の犠牲者の七六%は、ベトナム人どうしの殺し合いによるものだという数字もある。外国軍による残虐行為に正当化の余地はない。しかし、ベトナム人が同じ民族の多様な思想・信条を排除し、単一のイデオロギーで強権支配を行なったことは、外国の敵の侵略よりも大きな民族的悲劇と言えるのではないだろうか。

あとがきで、

帝国主義者との戦いに勝利したという自信が災いして、ハノイの党・政府指導部は過去に誤りがあってもそれを認めようとしなかった。党の指導は常に正しいものとされ、南北統一後は経済活動はもちろんジャーナリズムや宗教、文芸などもその統一的な指導下に置かれた。真の自由と独立を求める人々にとって、それは「新たな監獄」状況の始まりだった。こうして国家全体の利益と個人の利益は乖離し、対立するようになっていった。国家は個人に対して抑圧的な存在となり、貧しく弱い人々ほど国家権力の重圧に苦しむようになった。

さらに、

ベトナム人はアメリカ帝国主義だけの犠牲者ではなく、米ソ冷戦や中ソ対立という大国間のパワーゲームの犠牲者だった。そして、多くの人々にとっては、外部の侵略者との戦いのみならず、同じ民族による強権支配もまた巨大な暴力だった。過酷な時代をかいくぐってきた人々なら誰でも、政治的立場にかかわらず、自分と家族が安心して豊かに生きられる世の中を渇望しているはずだ。実情を知らない外国人が一方的に「連帯」の手を差し伸べても、「暖かい眼差し」を注いでも、大部分のベトナム人には何の関係もない、与り知らぬことだろう。
外国人がベトナム人を同情や哀れみの目で見る限り、ベトナム人は被害者、犠牲者、弱者であり続けなければならない。戦争の傷跡や貧しさを売り物にして、外国援助に頼る精神構造が生まれるのも当然だろう。それでは独立国家として諸外国と対等につき合うこともできない。

と記されています。

厨房で見る夢 在日ネパール人コックと家族の悲哀と希望 ビゼイ・ゲワリ著 田中雅子監訳・編著 上智大学出版

厨房で見る夢
在日ネパール人コックと家族の悲哀と希望

ビゼイ・ゲワリ Bijay Gyawali 著
田中雅子 監訳・編著
上智大学出版
2022年3月10日 第1版第1刷発行

本書は、ネパール人臨床心理士のビゼイ・ゲワリ氏がネパール語で書いた「Cheeze Naan : Hopes and Struggles of Nepalese cooks in Japan チーズナン:在日ネパール人コックの希望と葛藤」の出版に先立ち、その英語訳を日本語に訳し、編集されたものだそうです。

監訳・編著をされた田中雅子さんが巻末に「ネパール人コックの移動から見える日本の課題」と題し、本書の内容をまとめられています。そこで著者ビゼイ・ゲワリ氏の経歴として、トリブダン大学で学びながら鍼灸師の資格を取り、東洋医学を学ぶために日本に留学。臨床心理学の習得に進路を変更、国際医療福祉大学大学院で博士号を取得と紹介されています。

その彼が臨床心理士としてカウンセリングを行った、心の悩みを抱いたネパール人コックと家族、彼らに共通して見られる課題を提起するために本書が企画されたとのことです。相談者から得た情報と共に、ビゼイ氏自身の疑問や考察を織り交ぜたエッセイという体裁にまとめられています。

皆知ってはいるがあまり触れられることのなかった「呼び寄せビジネス」についても詳細に記されています。

経営者は、来日を夢見る人々の思いにつけ込んで、コックを薄給で雇う。それが嫌なコックは、経営者となり、自分がたどった道を他のコックに強いる。

と、人身売買のような日本への移住の連鎖にも言及されています。

「家族の呼び寄せ」や「在留資格」などに関する実情や、闇の話など、おぼろげに理解していたことも掘り下げた話を知ることが出来ます。

小林真樹氏が本書でもコラムを書かれており、直前に出版された「日本のインド・ネパール料理店」と合わせて読むと、更に興味が深まります。

 

日本のインド・ネパール料理店 小林真樹著 阿佐ヶ谷書院

日本のインド・ネパール料理店

小林真樹著
阿佐ヶ谷書院
2022年3月1日初版発行

発売日である2月24日に心待ちにしていた本書が配達されました。
「おわりに」で著者の小林真樹氏が以下のように記されています。

現代日本のインド料理店の主たる担い手が、インド人ではなくネパール人であるという事実は今や広く知れ渡っています。しかしネパール人の経営するインド飲食店、つまりインド・ネパール料理店(しばしばインネパ店と略されます)は、インド人ではない事で亜流視され、その総数に比して料理や動向が顧みられる事も、フォーカスされる事もありませんでした。しかしそこには現代日本のインド料理店像を象徴する動態が確かに見られ、深堀りしていくうちに単にインド人の代替ではない豊かで独自の食文化の広がりや、それを支えるネパール人オーナーやコックたちのたくましくも人間臭い魅力が沁みてきます。こうした動向や実態を紹介したいと思ったのが、本書執筆の主たる動機です。

北から南までのインド・ネパール料理店のネパール人オーナーやコックさんたちの物語が記されています。

コラム「越境するダルバート」では、ダルバートという呼称がいつ頃から日本で使われるようになったか、またダルバートではなくカナセットなどの呼称を使う店もなぜ多いのかなど興味深い話が並び、

元来看板すらないバッティで単に空腹を満たすだけの存在だったダルバートは、やがて従来持つイメージを脱却し、タメル地区でチャレスの皿に載せられて提供されるご馳走と化した。そうしたイメージの越境に加えて、国境を越えた日本ではやがて人種の壁を越えたインド人コックによって日本人に提供されるメニューとして作られるようになる。本国ではあまりにも身近過ぎて「カナ」や「パート」など複数の呼び名が併存し、非統一だった呼称が日本人の間で「ダルバート」の呼称に収斂され、一メニューとして提供されるようになる。我々のテーブルの前で食べられるのを待つその一皿は、形や味を変え、様々な境や壁や概念を越えて今、そこに存在しているのである。

と締めくくられています。

コラム「ネパール人の店名考」では

良くも悪くも文字に込める思い入れが過剰な日本人に比べ、ネパール人のそれはあまりにもあっさりしていて驚かされる。特に店名に関して、我々日本人からすると狙いもゲン担ぎも熱い想いもなく、そのあっさり具合はまるでその対象への情熱の欠如をすら感じさせるものがある。その辺り、当のネパール人たちは一体どう思っているのだろう。

から始まり、店名についての様々な考察が綴られています。

さらに最後には、
『日本のインド・ネパール料理店の成り立ち』が、
①草創期~ネパール人の来日
②増殖期~玉石混交と試行錯誤の時代
③成熟期~ネパール料理店の成立と今後の動向
の各章でまとめられていますが、ネパールの食文化も含めた文化を語る上でのカーストの問題や、社会情勢の変化の歴史を語る上でのマオイスト運動の話など、避けて通れない話にも触れられています。

関西のインド・ネパール店も『絢爛たる美食世界~京都・大阪・兵庫』と題して、「ヤク&イエティ Yak & Yeti」さん「アジアンガーデンダイニング アサン Asian Garden Dining ASAN」さん「ネパール創作料理 シュレスタ Shresta」さん「ネパールのごちそう jujudhau ズーズーダゥ」さん「ナラヤニ NARAYANI」さん、京都の 5つの「タージマハル」さん(ナマステ・タージマハル、タージマハル・エベレスト、ニュー・タージマハルエベレスト、バグワティ・タージマハル、エス・タージマハル)が取り上げられています。

マオイスト運動に関する書籍は
→「現代ネパールの政治と社会-民主化とマオイストの影響の拡大(南真木人、石井溥編集) 明石書店」

ネパールのカーストの文化人類学的考察の書籍は
→「みんなが知らないネパール 文化人類学者が出会った人びと 三瓶清朝著 尚学社」

 

 

みんなが知らないネパール 文化人類学者が出会った人びと 三瓶清朝 著 尚学社

みんなが知らないネパール
文化人類学者が出会った人びと

三瓶清朝 著
尚学社
2018年5月10日 初版第一刷発行

この本は文化人類学者の著者が、2001年にフィールドワークでネパールを訪れた際に会った旧友7人を取り上げ、彼ら彼女らを取り巻くカースト制度、生活習慣、儀礼、経済状況などを綴ることにより、ネパール人の考え方や行動を少しでも読者に伝えようとする書です。前書きに

 この本は、二〇〇一年八月から九月にかけて一か月間ほど、わたし(文化人類学者)がネパールに現地調査(field work)をおこなったさいに出会ったカースト身分の違う男女七人の旧友たちとの対話やその暮らしぶりや出会ったときに思いがけず起こったできごとをそれぞれ個人的に細かく描いたものである。それを通して全体でネパールの民族や文化(思考様式や行動様式)やカースト身分制度をうかがい知ることを目標に書かれた調査旅行記である。個人個人を通して見たネパール民族誌といってもよい。文化人類学的に見たネパール入門書といってもよい。
 この本を書くことになった動機は、その二〇〇一年夏の調査旅行があまりにも楽しかったからである。まんべんなく旧友たちと会えたということも楽しくうれしかったが、それだけでなく旧友たちとかわした対話も実に楽しかった。この楽しかった旧友たちとの邂逅や対話を記録して残し、読者と共有することは文化人類学者のはしくれとしてのわたしの義務であると思った。

と、記されています。

かなり細かな個人情報も含みますので、通り一遍の書では読み解くことが出来ない、今なお決して消滅することの無いカースト制度の奥深さ、闇をもうかがい知ることが出来ます。どのカーストの人が、どのような姓を名乗り、どのような職に就き、どれほどの収入があるのかの一端も教えてくれます。カースト上位のバフン族(ブラーマン)とチェトリ族の、聖紐 janai を授けられるカースト加入儀礼はブラタバンダ(ウパナヤナ)と呼ばれますが、どれほど多くの招待客を招きどれほどの多く費用がかかるかを知ると、その重要性が分かります。また婚姻においても、同じカースト内の自分と異なる姓(氏族)の相手と結婚せねばならない習わしはまだまだ残っていたり、花嫁持参金を相殺する姉妹交換婚(二人の男性がそれぞれの姉妹と結婚するやり方)がよくあることと紹介されています。

触れることはタブーにもなりうる、ダリット(被抑圧層)のことも記されていたり、ネパールでのNGO(Non Governmental Organization)の悪評判、外国から来る資金を着服することも臆さず文章にされています。

2001年のフィールドワークが2018年に発刊されることになった経緯を著者は記され、

この本を出版するにあたり、この本の内容がかなり前のこと(二〇〇一年のこと)であることに実はわたしも内心ほんとうに困ったなあという思いがある。-そう、忸怩たる思いである。「更新」や「最新」に価値を置く現代にあって、一六年前のことを書くのにどんな意味があるのだろうか。

と、時代遅れの内容ではと指摘される可能性について言及されていますが、

最近、二〇一七年三月に名和克郎(編)『体制転換期ネパールにおける「包摂」の諸相』(三元社)という分厚い本(全五七九頁)が出版された。これは、最近ネパール社会で多用される「包摂」(包摂は文脈からして「弱者保護」という意味だ)を主題として一四人の専門家(社会科学者)が専門家向けに書いた大型の論文集である。わたしはこれをなんということか全部(占読んでみたが、そのときの感想は、小さな変容はそこかしこに見られるものの大きくは「ネパールは変わっていない」というものである。ネパールは変わっていないのだ。たとえば、カースト制度など何も変わっていない。このわたしの本が「内容が古いと扱う」読者は、どうかそう決めつけないでいただきたい。

と結んでおられます。

→尚学社の本書の紹介ページ