ネパール探究紀行 長沢和俊著 角川新書

ネパール探究紀行

長沢和俊著
角川新書
昭和39年4月30日初版発行

著者のあとがきによると、昭和38年4月から11月にかけ、東海大学西部ネパール学術調査隊が行った歴史学的調査と民俗学的調査の大要を簡潔にまとめられたのが本書とのことです。G. Tucci; Preliminary report on two scientific expedition in Nepal, Roma, 1956 に、かつてマㇽラ王国という強大な王国があったと記されており、その遺跡を調査することが目的のひとつだった様です。

インドのテクニヤからネパールに入り、ドゥッルからジュムラにかけ、またマㇽラ王朝の王都であったとされるシンジャがフィールドワークの場であり、マㇽラ王朝とその後一体となったパーラ王朝の歴史的考察が詳しく記されています。

民俗学的調査とあるように、当時の西ネパールの食生活についても記されています。

西ネパールではドゥッル、ジュムラのような米作地帯は、一応男性は米食らしいが、その他の山間地帯では、おおむね小麦粉(アタ)によるロティ(いわゆるチャパティ)が主食である。アタまたはとうもろこしのロティ数枚とポテトのカレーが、年間を通じて最も多い食事であるという。夏季はそれでも、二、三の野菜も手に入るが、その他は四季を通じて、毎日ロティとポテトカレーである、ロティにはコルサニといって、唐辛子と塩をまぜたものをつけて食する。このほか牛や水牛を飼っている家では、ヨーグルトや脱脂ヨーグルト(モイ)を呑む。とうもろこしは非常に用途が広く、ロティのほか、ポプコーン、ディド等に使用する。ディドは粉末コーンの濃厚なポタージュスープであるが、これは西ネパールではあまり用いられない。畑仕事や放牧の時には、ランチとして、大麦粉を煎ったツァンパかポプコーンを持参する。もちろん、朝食の時作ったロティを持っていくこともある。

果物としてはドゥッルでは、バナナ(ケラ)、桃(アル)、梨(ナシパテー)がとれ、ジュムラでも桃、りんご等がとれるが、いずれも品種改良が試みられていないので、小粒で味も良くない。この地方では胡瓜(カングロ)も果物として扱われ、輪切りにしてコルサニをつけて食する。

 

ヒマラヤの寺院 ネパール・北インド・中国の宗教建築 佐藤正彦著 鹿島出版会

ヒマラヤの寺院
ネパール・北インド・中国の宗教建築

佐藤正彦著
鹿島出版会
2012年1月30日 第1刷

工学部建築学科の教授であった著者が、1982年からネパールを何度も訪れ寺院建築の詳細なフィールドワークを行い20余年の研究成果の論文をまとめたものが本書です。

構成は
プロローグ なぜ寺院建築なのか
第一章 ネパールの寺院建築
第二章 ネパールの建築の源流を探る―北インド建築
第三章 中国建築とのつながり
第四章 カトマンズの寺院建築
第五章 パータンの寺院建築
第六章 バドガウンの寺院建築
付録資料
エピローグ
からなり、旧王宮、広場、共同水場、休憩所、住居、仏教僧院、郊外の寺院、神々と仏、寺院と動物、寺院と植物、市場、職人街、教育事情、伝統建築の崩壊、修復の現状、とそれぞれ題された 15のコラムが挟まります。

第一章で、ヒンドゥー教と仏教、ラマ教の遺構が混在するというネパールの特徴について、人々の信仰を紹介されています。

ネパールでは人によって、それぞれの寺院の重要度、寺院を参拝する回数、寺院に祀られたそれぞれの神の地位、位置づけや権力など、さまざまな特徴により寺院の意義は異なる。動物の神パシュパティナートとして現れたシヴァ神は最も神聖なヒンドゥー教の神であるが、このシヴァ神は違った場所では別の意味をもつ。つまり、他所に祀られたシヴァ神がたとえパシュパティナートの像に似ていても同じ効力を必ずしもふるうわけではない。人々は、それぞれの諸願成就のために、それをかなえてくれる神々を求めるのである。

神仏混淆についても、パシュパティナート寺や

パシュパティナート寺には、ネパールの宗教的な意義を考える場合に、非常に興味深い現象がある。パシュパティナート寺は、一年のうちのたった一日のみではあるが、ご神体をチェンジするのである。(中略)パシュパティナート寺はカトマンズ盆地内のヒンドゥー教徒たちの聖地であるが、その本尊のシヴァ・リンガは、一年のある一日だけ仏の冠を被せられ、仏教徒たちの礼拝を受ける。これによってシヴァ・リンガの世界観は、最も直截的な方法で仏教の世界観に逆転されてしまう。この不思議な伝統は、二つの世界観を表裏一体の関係に統合する。このような事柄はネパールでもほかに例がない。

セト・マチェンドラナート寺を例に分かりやすく解説があります。

セト・マチェンドラナート寺は、仏教徒がセト・マチェンドラナートを観世音菩薩と考え、ヒンドゥー教徒は恵みの雨をもたらすシヴァの化身と考え、両教徒から崇められている。アーチ型の入口は二頭の金属製の獅子で守られ、中庭の高い石柱の上には天蓋付きで小さな仏陀像が祀られ、寺院の正面入口の方立の足元礎石上に観世音菩薩立像がある。礎石に獅子頭も付く。中庭には数多くの小仏塔や小祠もある。これらのことからも寺が仏教寺院であることを十分に知ることができるが、主祭神は雨とモンスーンの神マチェンドラナートで、ローケーシュヴァラという名を介して観世音菩薩がシヴァ神とつながっているので、ヒンドゥー教の神でもあるのだ。

建築学の観点からの本書での記述を簡単にまとめると

【平面構成】カトマンズ、パータン、バドガウンなどの寺院の一階平面は、様式(形式)や規模などによって IからⅨ類の九つに分類されるとのことで、各論の項ではすべての寺院の平面図が添えられています。

【構造デザイン・材料】寺院建築は、構造デザインや材料からみて大きく四つに分類されます。
『シカラ(高塔)様式建築』石造に多く残り、カジュラホーなどで発展した様式で、それらインドから直接強く影響を受けた建築と考えられ、パータンのクリシュナ寺に代表される。
『ネワール・パゴダ様式建築』金銀細工をはじめ木彫りなどに優れた技術を持つネワール族が造営に携わってきたもので、最も屋根数の多い五重屋根の寺院はニャタポーラ寺。
『イスラーム様式建築』北インドのムガル帝国以降の影響を強く受けた、レンガ造の平屋建てに多く、バグワティ寺やパシュパティナート寺に代表される。
『ストゥーパ(仏塔)様式建築』インドの土饅頭型とは異なり、何世紀もかけてブッダと仏教原理を表現する複合的なものに進化したもので、スワヤンブナート仏塔とボーダナート仏塔がその代表。

【装飾】ピーコックウインドーに代表される窓、トーラナやトーラナアーチ、方杖、斜め格子、壁面の腰回りに装飾としてみられる蛇身とナーガ(蛇神)信仰、屋根のガジュー(カジュル)、ドバジャ(バター、バターカ)、望楼などについても解説されています。これらの装飾についての過去の記事は →「Jestha Varna Mahavihar Min Nath Temple (Min Nath Temple) ミンナート寺院 (Patan)」 および →「Changu Narayan チャング ナラヤン」

第二章では著者の専門でもあるインド建築が、アジャンター第十九窟、エローラ第十窟、カジュラーホーのラクシュマーナ寺、マハーバリープラムの五つの寺院などを例に、ネパールとの繋がりも含め詳しく記されています。

第四章から六章では、250寺院について、建立年、修復年、実測した平面図、構造・様式、神室、細部、備考、各項目が書かれています。

15のコラムも読み応え十分です。

エピローグで、著者は以下のような自説を展開します。

ネパールのネワール・パゴダ様式建築の源流を赤道直下に位置するインドネシアの伝統的木造建築に次のような理由で求めたい。
①インドネシアの伝統的木造建築には、柱上に組物の発展がなく、簡単な方杖で軒を支える。
②インドネシア・ニアス島の伝統的木造民家は、床上の居住部分を外部に斜めに張り出して、格子を前倒しに付け、内側にベンチを設けている。
③インドネシア・北スマトラのリンガ村(バタックカロ族)の伝統的木造集会所は、屋根の頂部に上れない望楼を載せている。サモシル島のヌマタンプルマ(シマルングバタック博物館)の民家の頂部にも望楼が載る。
④貫の使用量が比較的少ない。
⑤ネパールのネワール・パゴダ様式建築は、二階より上に上れないものがほとんどで、バリ島の蜜櫓式木造塔に類似する。
⑥ネパールで著名なピーコックウインドー(孔雀窓)と類似するインドネシア国鳥ガルダウインドー(ジャワクマタカ窓)の技法がある。

この説の結論としては、

仮にこれが認められれば、ネワール・パゴダ様式建築の図式は次のようになる。
インドネシアの伝統的木造建築→インド・ケーララ州→インド・ヒマーチャル・プラデーシュ州→ネパール・ネワール・パゴダ様式建築

としています。また、日本の仏塔建築のルーツについても、以下のような自説を提唱しています。

一方、私はファーガソンが指摘したインド・ケーララ州を源にすることも捨てがたいと思っている。とくに、我が国の仏塔を考えると、「インド・ケーララ州→インドネシアの伝統的木造建築→我が国の仏塔」という図式が成り立つのではないかと想像をたくましくせざるを得ない。七世紀末に建立された世界最古の木造塔である法隆寺五重塔には、心柱がある。心柱構造の木造塔は、中国にもネパールのパゴダ建築にもない。しかし、インドネシア・バリ島の木造塔は心柱構造である。ジャック・デュマルセは、東ジャワのチャンディ・スロウォノの東壁北東隅に現れる一本柱で屋根(三重)を支える(心柱構造)のは、インド・ケーララ州東側に隣接するタミル・ナードゥ州マハーバリプラムにある八世紀の岩石寺院にみられる(佐藤浩司訳『東南アジアの住まい』)と指摘している。かつて国語学者の大野晋氏は、インド南部のタミル語と日本語が大変類似していることを著している。私は我が国の建築を考える際、インド洋、南シナ海の海上の道を、中国大陸横断のシルクロードとともに考慮すべきと思っている。

 

ベトナム戦争の「戦後」中野亜里編 株式会社めこん

ベトナム戦争の「戦後」

中野亜里編
株式会社 めこん
2005年9月25日 初版第1刷

2022年は2月24日にロシアによるウクライナ侵攻、中国が西側勢力によって仕組まれた「茶番」だとして公表しないよう求めていたにもかかわらず、国連が8月31日に中国・新疆地区で「深刻な人権侵害」が見られるとして、中国を非難する報告書を公表したりと、共産主義勢力の姿勢が明らかになった年でもありました。これらは今に始まったことではなく、ベトナム戦争でソ連や中国がどのような戦略を用いたかを思い起こせば、まさしく『歴史は繰り返す』を証明した年でもあります。ベトナム戦争に関するいくつかの書籍をご紹介してきました →「本 ベトナム戦争」が、本屋さんで見つけ買い求めていた1冊(2005年刊行ですが)をご紹介いたします。

メコン社さんの web site では本書の紹介として、以下のように記され、

(前略)ベトナム戦争はベトナムだけではなく、世界中に大きな影響を残しました。しかし、日本人は南ベトナムの民族解放戦線にやたらに肩入れしたので、そのベトナムがカンボジアに侵攻したらわけがわからなくなりました。アメリカはいまだにベトナム戦争後遺症をひきずっています。そして、肝心のベトナムは「戦後」、いったいどうなってしまったのでしょう。
 どうも、日本の「ベトナム世代」は思い入れで目が曇り、事態をきちんと見ることができないようです。そこで、いずれもベトナム世代以降の、在日ベトナム人を含む若手研究者、ジャーナリストがベトナム戦争の「戦後」を考えなおしてみようということになりました。全く新しい刺激的なベトナム論、ベトナム戦争論です。

内容構成は以下のようになっています。
第1部 ベトナムの戦後
1 ベトナムの革命戦争
2 記者が見た英雄たちの戦後
3 統一ベトナムの苦悩――政治イデオロギーと経済・社会の現実
4 南部の貧困層と国際NGO活動に見る戦争の影響
5 ベトナム人民軍の素顔
6 人々の意識を荒廃させた経済・社会政策――ドイモイ前の「バオカップ」制度
7 抗米戦争と文学

第2部 ベトナムの戦争と関係諸国
1 日本から見たベトナム戦争とその戦後
2 アメリカにとってのベトナム戦争――今も続く「泥沼の教訓」論争
3 周辺諸国にとってのベトナム戦争
4 ベトナム革命戦争と中国
5 国際共同体の一員として

第1部 第1章では戦争の概略のおさらい、それを踏まえて第2部 第1章で当時の日本人がなぜ反戦に熱狂したかが記されています。他でも指摘されているように、南ベトナム解放民族戦線を、南ベトナム『民族解放』戦線と表記し、人々の意識を操作し、ことさら反米を煽ったマスメディアの役割も大きく、以下のごとく記されています。

ベトナム人に寄せられた共感の理由には、同じアジアだという地理的、文化的な近さもあげることができる。新聞紙上などで、「同じ稲作民族」であるとか、`同じ黄色人種であることがしばしば言及され、「アジアのことはアジア人の手に」といった、今から見れば人種主義とも、第二次大戦以降封印されてきたアジア主義的心情の噴出とも取れるような主張が行なわれた。
 こうした主張が登場した背景に、六〇年安保からの流れである反米ナショナリズムの影響があったことは見逃せない。岸内閣が改正安保条約を国会での強行採決で成立させたことで六〇年安保は挫折に終わったものの、反安保、反基地のスローガンはベトナム反戦にも引き継がれていた。反戦運動に参加した日本人がたちは北ベトナムの「抗米救国」のスローガンをわがことのように叫んだ。

戦争当時は解放民族戦線に肩入れをした日本人は、戦後、彼らがソ連が後押しするハノイの北ベトナム共産党によって無視される立場におかれたこと→「裏切られたベトナム革命 チュン・ニュー・タンの証言」には全く関心がありません。

サイゴン政府崩壊後、政権移譲に関する施策は党政治局がすべて決定し、南部に基盤を持つ党中央委員のヴォー・ヴァン・キェットを通じて指令が出された。南部の政府機構の各部門には、北ベトナム政府の当該部門の官僚が配置され、労働党の要員が重要なポストについた。党は臨時革命政府と解放戦線、およびその他の政治勢力の今後の役割については、何ら明確にしなかった。独立で中立の南ベトナム国家建設の構想は立ち消えとなり、非共産主義勢力を統合してきた指導部は、もはや不要な存在とみなされた。

戦後かなりの年数が経った後に及んでもことさら「解放民族戦線」を持ち上げるのは滑稽であり、諸問題の根源を見ていません。

ベトナム戦争当時、民衆の戦いに強い共感を寄せた日本人だが、このように党と民衆とが乖離したベトナムの現状にはほとんど無関心に見える。そして、それとは対照的に「民衆の戦争」を担った南ベトナム解放民族戦線へのこだわりは今も折に触れて示される。

解放民族戦線は、労働党(のちの共産党)が社会主義、共産主義を推し進める上での対外的な正当性を担保するものであって、

党の政治イデオロギーでは、民族解放の後に社会主義に向かうことは歴史の客観的な法則で、闘争の過程で解放戦線、平和勢力連合、臨時革命政府などを設立したことは、革命の正統性と内外の支持を獲得するためだった。そして、これら組織の軍事・政治闘争と外交闘争における功績も、労働党が指導する革命の成果として語られるようになったのである。

目的が達せられたあかつきには、その意義は矮小化されてしまいました。

ベトナム共産党にとって「戦争を指導して独立を達成した」という党の自己イメージは、一党支配の正当性の基盤となる絶対的なものであり、党が解放戦線に独立した役割を分け与えようはずがない。ベトナム共産党のホームページで「解放戦線」の定義を探すと、「党中央委の第一五号決議の精神に基づいて設立され、労働党南部委員会の直接の指導を受けた」となっており、解放戦線に何の独自性も認めていない。ベトナム百科事典編纂指導国家委員会編『ベトナム百科事典』に記述されている「解放戦線」の項目も、解放戦線が軍事力として実際に戦場で果たした役割にはいっさい触れていない。こうしたベトナム共産党中心の歴史解釈が公式なものとして存在し続けていることは、日本では十分認識されていない。また、解放戦線や臨時革命政府が標榜した、敵味方、南北の差別のない社会、多様な考え方を持った人々を糾合した社会を実現できなかった、というベトナムの戦後が抱える影の部分にも、注意が向けられることは少ない。

ベトナム戦争とは、帝国主義者との闘いというのは表向きで、単一のイデオロギーで強権支配しようと同じ民族の多様な思想・信条を排除するためのベトナム人同士の戦いであったという点に目をつぶりすぎたのが「戦後」の問題点の始まりかもしれません。

革命勢力は、世界人民が自分たちを支持しているという信念に支えられて戦った。それは、グローバルな革命勢力の先鋒として帝国主義者と闘い、世界人民のために犠牲を払っているという自意識でもあった。しかし、そのために戦後も、独立国でありながら外国援助に依存することを恥じず、むしろ正しい戦いの犠牲者を世界が支援するのは当然という意識が定着した。
 ベトナム革命に共感を寄せる日本人は、ベトナム人の上にアメリカ帝国主義の犠牲者の姿を見出そうとする。しかし、戦時中と戦後の混乱期の犠牲者の七六%は、ベトナム人どうしの殺し合いによるものだという数字もある。外国軍による残虐行為に正当化の余地はない。しかし、ベトナム人が同じ民族の多様な思想・信条を排除し、単一のイデオロギーで強権支配を行なったことは、外国の敵の侵略よりも大きな民族的悲劇と言えるのではないだろうか。

あとがきで、

帝国主義者との戦いに勝利したという自信が災いして、ハノイの党・政府指導部は過去に誤りがあってもそれを認めようとしなかった。党の指導は常に正しいものとされ、南北統一後は経済活動はもちろんジャーナリズムや宗教、文芸などもその統一的な指導下に置かれた。真の自由と独立を求める人々にとって、それは「新たな監獄」状況の始まりだった。こうして国家全体の利益と個人の利益は乖離し、対立するようになっていった。国家は個人に対して抑圧的な存在となり、貧しく弱い人々ほど国家権力の重圧に苦しむようになった。

さらに、

ベトナム人はアメリカ帝国主義だけの犠牲者ではなく、米ソ冷戦や中ソ対立という大国間のパワーゲームの犠牲者だった。そして、多くの人々にとっては、外部の侵略者との戦いのみならず、同じ民族による強権支配もまた巨大な暴力だった。過酷な時代をかいくぐってきた人々なら誰でも、政治的立場にかかわらず、自分と家族が安心して豊かに生きられる世の中を渇望しているはずだ。実情を知らない外国人が一方的に「連帯」の手を差し伸べても、「暖かい眼差し」を注いでも、大部分のベトナム人には何の関係もない、与り知らぬことだろう。
外国人がベトナム人を同情や哀れみの目で見る限り、ベトナム人は被害者、犠牲者、弱者であり続けなければならない。戦争の傷跡や貧しさを売り物にして、外国援助に頼る精神構造が生まれるのも当然だろう。それでは独立国家として諸外国と対等につき合うこともできない。

と記されています。

厨房で見る夢 在日ネパール人コックと家族の悲哀と希望 ビゼイ・ゲワリ著 田中雅子監訳・編著 上智大学出版

厨房で見る夢
在日ネパール人コックと家族の悲哀と希望

ビゼイ・ゲワリ Bijay Gyawali 著
田中雅子 監訳・編著
上智大学出版
2022年3月10日 第1版第1刷発行

本書は、ネパール人臨床心理士のビゼイ・ゲワリ氏がネパール語で書いた「Cheeze Naan : Hopes and Struggles of Nepalese cooks in Japan チーズナン:在日ネパール人コックの希望と葛藤」の出版に先立ち、その英語訳を日本語に訳し、編集されたものだそうです。

監訳・編著をされた田中雅子さんが巻末に「ネパール人コックの移動から見える日本の課題」と題し、本書の内容をまとめられています。そこで著者ビゼイ・ゲワリ氏の経歴として、トリブダン大学で学びながら鍼灸師の資格を取り、東洋医学を学ぶために日本に留学。臨床心理学の習得に進路を変更、国際医療福祉大学大学院で博士号を取得と紹介されています。

その彼が臨床心理士としてカウンセリングを行った、心の悩みを抱いたネパール人コックと家族、彼らに共通して見られる課題を提起するために本書が企画されたとのことです。相談者から得た情報と共に、ビゼイ氏自身の疑問や考察を織り交ぜたエッセイという体裁にまとめられています。

皆知ってはいるがあまり触れられることのなかった「呼び寄せビジネス」についても詳細に記されています。

経営者は、来日を夢見る人々の思いにつけ込んで、コックを薄給で雇う。それが嫌なコックは、経営者となり、自分がたどった道を他のコックに強いる。

と、人身売買のような日本への移住の連鎖にも言及されています。

「家族の呼び寄せ」や「在留資格」などに関する実情や、闇の話など、おぼろげに理解していたことも掘り下げた話を知ることが出来ます。

小林真樹氏が本書でもコラムを書かれており、直前に出版された「日本のインド・ネパール料理店」と合わせて読むと、更に興味が深まります。

 

日本のインド・ネパール料理店 小林真樹著 阿佐ヶ谷書院

日本のインド・ネパール料理店

小林真樹著
阿佐ヶ谷書院
2022年3月1日初版発行

発売日である2月24日に心待ちにしていた本書が配達されました。
「おわりに」で著者の小林真樹氏が以下のように記されています。

現代日本のインド料理店の主たる担い手が、インド人ではなくネパール人であるという事実は今や広く知れ渡っています。しかしネパール人の経営するインド飲食店、つまりインド・ネパール料理店(しばしばインネパ店と略されます)は、インド人ではない事で亜流視され、その総数に比して料理や動向が顧みられる事も、フォーカスされる事もありませんでした。しかしそこには現代日本のインド料理店像を象徴する動態が確かに見られ、深堀りしていくうちに単にインド人の代替ではない豊かで独自の食文化の広がりや、それを支えるネパール人オーナーやコックたちのたくましくも人間臭い魅力が沁みてきます。こうした動向や実態を紹介したいと思ったのが、本書執筆の主たる動機です。

北から南までのインド・ネパール料理店のネパール人オーナーやコックさんたちの物語が記されています。

コラム「越境するダルバート」では、ダルバートという呼称がいつ頃から日本で使われるようになったか、またダルバートではなくカナセットなどの呼称を使う店もなぜ多いのかなど興味深い話が並び、

元来看板すらないバッティで単に空腹を満たすだけの存在だったダルバートは、やがて従来持つイメージを脱却し、タメル地区でチャレスの皿に載せられて提供されるご馳走と化した。そうしたイメージの越境に加えて、国境を越えた日本ではやがて人種の壁を越えたインド人コックによって日本人に提供されるメニューとして作られるようになる。本国ではあまりにも身近過ぎて「カナ」や「パート」など複数の呼び名が併存し、非統一だった呼称が日本人の間で「ダルバート」の呼称に収斂され、一メニューとして提供されるようになる。我々のテーブルの前で食べられるのを待つその一皿は、形や味を変え、様々な境や壁や概念を越えて今、そこに存在しているのである。

と締めくくられています。

コラム「ネパール人の店名考」では

良くも悪くも文字に込める思い入れが過剰な日本人に比べ、ネパール人のそれはあまりにもあっさりしていて驚かされる。特に店名に関して、我々日本人からすると狙いもゲン担ぎも熱い想いもなく、そのあっさり具合はまるでその対象への情熱の欠如をすら感じさせるものがある。その辺り、当のネパール人たちは一体どう思っているのだろう。

から始まり、店名についての様々な考察が綴られています。

さらに最後には、
『日本のインド・ネパール料理店の成り立ち』が、
①草創期~ネパール人の来日
②増殖期~玉石混交と試行錯誤の時代
③成熟期~ネパール料理店の成立と今後の動向
の各章でまとめられていますが、ネパールの食文化も含めた文化を語る上でのカーストの問題や、社会情勢の変化の歴史を語る上でのマオイスト運動の話など、避けて通れない話にも触れられています。

関西のインド・ネパール店も『絢爛たる美食世界~京都・大阪・兵庫』と題して、「ヤク&イエティ Yak & Yeti」さん「アジアンガーデンダイニング アサン Asian Garden Dining ASAN」さん「ネパール創作料理 シュレスタ Shresta」さん「ネパールのごちそう jujudhau ズーズーダゥ」さん「ナラヤニ NARAYANI」さん、京都の 5つの「タージマハル」さん(ナマステ・タージマハル、タージマハル・エベレスト、ニュー・タージマハルエベレスト、バグワティ・タージマハル、エス・タージマハル)が取り上げられています。

マオイスト運動に関する書籍は
→「現代ネパールの政治と社会-民主化とマオイストの影響の拡大(南真木人、石井溥編集) 明石書店」

ネパールのカーストの文化人類学的考察の書籍は
→「みんなが知らないネパール 文化人類学者が出会った人びと 三瓶清朝著 尚学社」

 

 

みんなが知らないネパール 文化人類学者が出会った人びと 三瓶清朝 著 尚学社

みんなが知らないネパール
文化人類学者が出会った人びと

三瓶清朝 著
尚学社
2018年5月10日 初版第一刷発行

この本は文化人類学者の著者が、2001年にフィールドワークでネパールを訪れた際に会った旧友7人を取り上げ、彼ら彼女らを取り巻くカースト制度、生活習慣、儀礼、経済状況などを綴ることにより、ネパール人の考え方や行動を少しでも読者に伝えようとする書です。前書きに

 この本は、二〇〇一年八月から九月にかけて一か月間ほど、わたし(文化人類学者)がネパールに現地調査(field work)をおこなったさいに出会ったカースト身分の違う男女七人の旧友たちとの対話やその暮らしぶりや出会ったときに思いがけず起こったできごとをそれぞれ個人的に細かく描いたものである。それを通して全体でネパールの民族や文化(思考様式や行動様式)やカースト身分制度をうかがい知ることを目標に書かれた調査旅行記である。個人個人を通して見たネパール民族誌といってもよい。文化人類学的に見たネパール入門書といってもよい。
 この本を書くことになった動機は、その二〇〇一年夏の調査旅行があまりにも楽しかったからである。まんべんなく旧友たちと会えたということも楽しくうれしかったが、それだけでなく旧友たちとかわした対話も実に楽しかった。この楽しかった旧友たちとの邂逅や対話を記録して残し、読者と共有することは文化人類学者のはしくれとしてのわたしの義務であると思った。

と、記されています。

かなり細かな個人情報も含みますので、通り一遍の書では読み解くことが出来ない、今なお決して消滅することの無いカースト制度の奥深さ、闇をもうかがい知ることが出来ます。どのカーストの人が、どのような姓を名乗り、どのような職に就き、どれほどの収入があるのかの一端も教えてくれます。カースト上位のバフン族(ブラーマン)とチェトリ族の、聖紐 janai を授けられるカースト加入儀礼はブラタバンダ(ウパナヤナ)と呼ばれますが、どれほど多くの招待客を招きどれほどの多く費用がかかるかを知ると、その重要性が分かります。また婚姻においても、同じカースト内の自分と異なる姓(氏族)の相手と結婚せねばならない習わしはまだまだ残っていたり、花嫁持参金を相殺する姉妹交換婚(二人の男性がそれぞれの姉妹と結婚するやり方)がよくあることと紹介されています。

触れることはタブーにもなりうる、ダリット(被抑圧層)のことも記されていたり、ネパールでのNGO(Non Governmental Organization)の悪評判、外国から来る資金を着服することも臆さず文章にされています。

2001年のフィールドワークが2018年に発刊されることになった経緯を著者は記され、

この本を出版するにあたり、この本の内容がかなり前のこと(二〇〇一年のこと)であることに実はわたしも内心ほんとうに困ったなあという思いがある。-そう、忸怩たる思いである。「更新」や「最新」に価値を置く現代にあって、一六年前のことを書くのにどんな意味があるのだろうか。

と、時代遅れの内容ではと指摘される可能性について言及されていますが、

最近、二〇一七年三月に名和克郎(編)『体制転換期ネパールにおける「包摂」の諸相』(三元社)という分厚い本(全五七九頁)が出版された。これは、最近ネパール社会で多用される「包摂」(包摂は文脈からして「弱者保護」という意味だ)を主題として一四人の専門家(社会科学者)が専門家向けに書いた大型の論文集である。わたしはこれをなんということか全部(占読んでみたが、そのときの感想は、小さな変容はそこかしこに見られるものの大きくは「ネパールは変わっていない」というものである。ネパールは変わっていないのだ。たとえば、カースト制度など何も変わっていない。このわたしの本が「内容が古いと扱う」読者は、どうかそう決めつけないでいただきたい。

と結んでおられます。

→尚学社の本書の紹介ページ

 

 

NEPALI KHAJA ネパールのカジャ 食で繋がる旅 本田遼著 SAUNTER Magazine キルティブックス

NEPALI KHAJA
EATING, CONNECTING, TRABVELING 食で繋がる旅

本田遼著
SAUNTER Magazine キルティブックス
The Fourth Issue 2021

本田遼さんがネパールのカジャについて書かれています。そして、ご自身の立ち位置についてもしっかり言及されています。

最近ではインターネットで検索すれば簡単に手に入るし、それに倣えば作れた気分にはなる。だが、やはりその国に行って現地の空気を体感し、文化を理解しないと作れないものがある。そして理解を深めるためにはその国の文化への敬意が必要だ。
だから僕はネパールの文化を尊重しフィールドワークを通して色々な人に直接話を聞いて、なるべく自分勝手なフィルターを通さないように気を付けながら俯瞰で物事を理解するようにしている。あくまで客観的に、パーツとパーツを繋ぐジグソーパズルのように。そうして多民族国家ならではの複雑な各民族の文化とネパールとして単一の文化を選別しカテゴライズしていく。そんな作業の繰り返しを僕は一生を通して積み重ねていくつもりだ。

遼さんのおすすめのカジャは、チョエラ、ウォー、アルタマとのことです。

東京に比べると、大阪周辺でカジャを頂けるネパール料理店は限られています。月に2回カジャを提供されていた「Turmeric ターメリック」さん閉店後は、種類豊富なカジャを一度に楽しむ機会が減りました。ネパールを再び訪れることが出来る日が早く来てほしいものです。

 

Taste of Nepal JYOTI PATHAK 著

Taste of Nepal

JYOTI PATHAK 著

2007年に刊行された「Taste of Nepal」ですが、ネパール料理についてのこれ以上詳しい成書は、なかなか他には見つけることが出来ません。著者の JYOTI PATHAK さんは巻頭でこの本を著すに至った経緯を記しておられます。

This book is for anyone curious about Nepali cuisine, whether the interest stems simply from a desire to cook or to learn about a different culture.  I also hope that this book will assist first generation Nepalese living abroad, who wish to learn to cook Nepali food.  Finally, this book may also serve as a resource for people who have visited Nepal: returned Peace Corps volunteers and tourists who want recipes for the food they enjoyed in Nepal.  If I am able to preserve Nepali culture and traditions even on a small scale, this will be a great accomplishment!

との文章も綴られ、レシピ本としてだけではなく、ネパールの文化と伝統も伝える本となっています。最近は更新が止まっていますが、同名のブログも興味深い内容が満載です。巻末の Glossary の Nepali-English は ローマ字綴りのネパール語と英語の辞書の様なもので、デーヴァナーガリー文字が苦手な私の様な者にとって重宝しています。

昨年に、ほぼ閲覧専用の私の Instagram から Jyoti Pandey-Pathak さんの https://www.instagram.com/jppatak/ をフォローしました。フォローバックして下さいましたので、これまでこの web site で沢山引用させて頂いた御礼と、日本でも本書はよく読まれていることを早速お伝えしました。嬉しいことに、すぐに返事も頂けましたので、いろいろお尋ねしたいと思います。

 

 

 

 

スリランカ政治とカースト N.Q. ダヤスとその時代 1956~1965 川島耕司著 芦書房

スリランカ政治とカースト
N.Q. ダヤスとその時代 1956~1965

川島耕司著
芦書房
2019年2月25日 初版第1刷

1956年の総選挙で S.W.R.D. バンダーラナーヤカが「シンハラオンリー」政策を掲げて選挙戦を戦い、勝利したこと、そしてその妻シリマーウォー・バンダーラナーヤカがシンハラ仏教ナショナリズムに基づく政策を遂行し続けたことがスリランカにおける民族対立の深刻化に大きく寄与したことは明らかである。そしてそのどちらにおいてもカラーワの行政官であった N.Q. ダヤスはきわめて重要な役割を果たした。 

と「あとがき」で記されているように、本著はシンハラ社会にあると言われる 15の代表的なカーストのうち最高位にあるゴイガマ (Goigama) ではなく、カラーワ (Karava) の N.Q. Dias ダヤスに焦点が当てられています。

ヒンドゥ教が主たる宗教のインドやネパールの社会のカーストは良く知られていますが、スリランカの社会のカーストについては、まず『はじめに』で、以下の様に説明されています。

スリランカ社会のもつ明確な特徴の一つは、カーストに言及すること自体が強力なタブーであることである。カーストはセンシティブな話題であり、日常会話のなかでは極力回避され、公的な議論のなかにもほとんど登場しない。スリランカ政治においては、個人の権利、女性の権利、あるいはエスニックーマイノリティの権利という議論は登場するが、マージナルな地位におかれたカーストに属する人々の権利という概念はほぼ存在しない。逆に、カースト間の平等に関する問題を提起しようとする試みはしばしば非難や叱貞、あるいは侮蔑の対象となる。カーストを扱うことは、マナー違反であり、不必要で時代遅れであるとされる。あるいは、社会的結束への脅威であるとされ、意図的な社会的分断の手段であるとみられることさえある。
 その結果、カーストに関わる問題があったとしても、著しく過小評価される。カーストに関してはスリランカ社会は十分に平等主義的であるとされ、カーストを識別することには意味がないというのが「スリランカ全体に渡る標準的な反応」となっている。

とは言え、ブッダの教えそのものはカーストを否定するものですが、シンハラ人の仏教徒の間にもカーストは確実に存在してきました。

『第1章 スリランカのカーストとカラーワ』では、比較的新しい時期に南インドからスリランカに渡来した集団と考えられるカラーワを中心に、カーストについて記されています。ゴイガマより低い地位にあるとみられていたカラーワは、植民地下のプランテーション経済において、アラックなどの酒類流通などで富を蓄積し、その経済力を背景に社会的威信や政治的影響力を求めるようになります。

経済的に圧倒的な成功を収めたカラーワのエリートたちは、社会的地位の上昇と政治的影響力の拡人を求め始めた。仏教復興運動への支援はその一環であった。この運動はもともと植民地下でのキリスト教宣教師の活動への反発から生まれたものである。

しかし 1931年にドノモア憲法により男女普通選挙が導入されると、人口でも多数を占めるゴイガマが政治的支配をさらに強化し、カラーワの政治的影響力の欠如が明確となりました。

『第2章 1950年代スリランカにおける政治とカースト』では、1950年ごろのシンハラ・カーストに関し綴られています。

明らかに 1950年頃のシンハラ社会にはカーストの社会的、政治的影響は大きく残っていた。カースト規制を強制するような行為は徐々に行われなくなっていたとされるが、人々の意識においては、「地位の記憶」が強固に残り、生活をさまざまな形で規定していた。

自らのカースト内で結婚するという内婚規制が非常に厳格に守られ、食物に関する規制もまたかなり強く残っており、カースト・ヒエラルキーは厳然と存在し、低位カーストは高位カーストに対してさまざまな形で経緯を示さなければならない時代でした。

その1950年代の非ゴイガマ・カーストの注目された政治家を取り上げています。カラーワ・カーストのクララトネ Patrick de Silva Kularatne 1893-1976 は仏教復興運動の重要な成果として設立された中等教育のエリート校、アーナンダ・カレッジのみでなく、スリランカの「ほとんどあらゆる仏教徒学校」の発展に尽力しました。しかしその後の政界進出は無残なものとなりました。サラーガマ・カーストのダ・シルワ Charles Percival de Silva 1912-1972 は院内総務および国土および国土開発大臣に任命されました。1960年の総選挙ではスリランカ自由党を率いて戦いましたが敗北に終わりました。

 非ゴイガマの政治エリートたちが政治的影響力を確保することは少なくともゴイガマのエリートたちに比べれば明らかに難しかった。クララトネやダ・シルワが必ずしも十分に彼らが望む政治的活動ができなかった少なくとも一因にカーストの問題があったことは十分に想定できるのではないだろうか。少なくとも当時のスリランカ政治の観察者たちの多くにはそう思われていた。P・ダ・S・クララトネは、教育者として華々しい成功を収めながら、統一国民党内では「完全に無視」されることになった。サラーガマのC・P・ダ・シルワは、スリランカ自由党内ではかなりの地位にまで上りつめたのだが、首相になることはできなかった。カーストが彼らの政治的活動をどの程度制約したかは必ずしも明らかではない。しかし、ゴイガマが圧倒的多数を占める政界においては非ゴイガマ・カーストの政治家たちは不利であるという認識は当時の人々の間にはかなりの程度あったことは確かである。

それではこうした状況のなかで政治的野心をもつ非ゴイガマのエリートたちはどのように行動しうるのだろうか。どのような選択肢がありえたのであろうか。当時強力に台頭しつつあったシンハラ仏教ナショナリズムに深く関わり、より高次なアイデンティティにコミットすることでカースト的制約を乗り越えようという戦略はその一つになりうると思われる。

『第3章 1956年の政治変革』では、独立から1956年の政治変革に至る時期におけるシンハラ仏教ナショナリズムの展開をたどり、N.Q. ダヤスという行政官に焦点をあててカラーワ・エリートたちの動きを明らかにしようとしています。

 このように 1950年代前半には仏教と政治が深く結びつき、仏教僧や在家信者たちの間での組織化が進んだ。ただすでにみたように、当時注目された「コミュナリズム」はムスリムやキリスト教徒といった宗教的コミュニティを標的にしたものと「インド人問題」に対するものであった。マジョリティであるシンハラ人仏教徒の側からセイロン・タミル人を激しく批判するような動きは 1950年代半ばになるまでは明確には現れなかった。逆に、自国語運動 (Swabasha movement) においてはシンハラ語とタミル語の二言語をともに公用語化すべきであるという見方がかなりあった。少なくとも 1950年代初頭にはそう主張する人々は多かった。
 後にシンハラ・オンリーを激しく主張することになるS.W.R.D. バンダーラナーヤカ白身もまたタミル語をも公用語にすべきであると述べていた。

その中でダヤスは、カトリック教徒が比較的高い教育を受け、多くの要職を占め、教会を中心に組織化されていることにその政治的影響力の一因があることに注目し、同様に仏教徒も組織化されるべきと考え、シンハラ仏教ナショナリズムに深く関わっていきます。

つまり1950年代前半にはシンハラ仏教ナショナリズムが相当程度高められ、統一比丘戦線を代表とするいくつかの組織ができあがったが、この動きを組織化し、より影響力のある政治勢力として提示する役割の大きな部分を担ったのはダヤスであり、ダヤスときわめて密接な関係にあったメッターナンダ、あるいは仏教委員会の一員でもあるクララトネといったカラーワの活動家たちであった。もちろん 1950年代における仏教僧たちの政治意識の高まりや、在家信者たちへのシンハラ仏教ナショナリズムの浸透が彼らだけの力によるものではないことは明らかである。特に1930年代以降、シンハラ人仏教徒としてのアイデンティティと政治はますます密接につながりつつあった。しかしダヤスたちがきわめて精力的にその流れを組織化し、また促進したこと、そして彼らがそうすることで一定の政治的影響力を確保しようとしたことは間違いないのではないだろうか。

『第4章 S.W.R.D. バンダーラナーヤカとシンハラ仏教ナショナリズム』では、1956年に総選挙で勝利し成立したバンダーラナーヤカ政権下における、政治、宗教、ナショナリズムの展開が記されています。

 政権獲得後のバンダーラナーヤカは、特に言語政策に関しては過激なシンハラ・ナショナリストの要求を極力排除しようとした。彼はタミル語話者たちとの会談に長い時間をかけた。後述するように、彼はタミル人指導者セルワナーヤガムとの間で分権化に向けた協定を結んだ。ただ、いったん煽り立てられた民族感情をコントロールすることは明らかに困難であった。

1956年6月5日に提出された公用語法案は、基本的にはシンハラ語を唯一の公用語とするものでしたが、マイノリティへの譲歩を含むものでした。過激なナショナリストたちには到底受け入れることが出来ないものであり、その圧力により改変されることとなり、タミル人たちによる「サティヤグラハ」という抗議活動と、その後の反タミル暴動を招くこととなり、スリランカにおける民族対立が深刻化していきました。

基本的に融和的な政治姿勢をとろうとしたバンダーラナーヤカを激しく非難した 1人がカラーワ・カーストの L.H. メッターナンダでした。N.Q. ダヤスと共にシンハラ仏教ナショナリズムに深く関与し、バンダーラナーヤカを勝利に導いた 1956年の選挙戦において仏教僧を組織した重要な人物でした。N.Q. ダヤスが新政権成立後文化局長として政府内において一定の役割を果たしたのに対し、L.H. メッターナンダは政府職に就きませんでした。

両者の関係が実際にどのようなものであったかは必ずしも明らかではないが、ダヤスがその財力と影響力によってメッターナンダの言論活動を支えていたという可能性は十分にあると思われる。イギリスの政府文書には、メッターナンダは N.Q. ダヤスの「表看板 (front man)」であるとも記されている。

公用語法案の他にも、バンダーラナーヤカは自らの「政治的手腕」によりマイノリティにも配慮した政策を遂行しようとしました。1957年の BC協定もそのひとつです。

BC協定(バンダーラナーヤカ・セルワナーヤガム協定、Bandaranaike-Chelvanayakam Pact)はバンダーラナーヤカとスリランカ・タミル人を代表する連邦党の S.J.V. セルワナーヤガムとの妥協の上に成立したものであった。この協定のなかでタミル人たちはタミル語をシンハラ語と同等の地位にあるものとして扱うよう求める要求を放棄した。また彼らはそれまで進めてきたサティヤグラハ運動を停止するとした。一方で政府は、タミル語をマイノリティの言語として扱い、北部や東部の行政機関で使用することを認め、また、教育や農業、あるいはシンハラ人のタミル地域への入植を管理する権限を地域評議会に与えるというものであった。両者の合理的な妥協の上に成立したこの協定は民族問題解決に向けての出発点としては非常によくできたものであったとみられている。しかし議会内の両陣営からは激しく攻撃されることになった。 

メッターナンダをはじめとして、このBC協定批判が繰り返され、シンハラ人とタミル人の対立はますます激しいものとなり、1958年には大暴動も発生しました。そのような状況の中、1959年9月にバンダーラナーヤカが暗殺されます。「バンダーラナーヤカ暗殺」の項では、暗殺の首謀者とされるブッダラッキタの人物像や政界との入り組んだ人間関係が記されています。この暗殺には不可解な部分も多く、さまざまな憶測が流れましたが、首相の妻であったシリマーウォー・バンダーラナーヤカが首相となり、結果的にみれば過激なシンハラ仏教ナショナリストたちにとっては明らかにより好ましい状況がもたらされました。

「確固とした自らの政治哲学は全くもたず」、シンハラ至上主義的心情に疑問をもつことも、それを隠すことをもしなかったパンダーラナーヤカ夫人は、過激なシンハラ仏教ナショナリストたちにとっては明らかに好都合な指導者であった。「狂信的な在家信者 (fanatical layman)」と呼ばれた L.H. メッターナンダや「仏教への熱狂者 (Buddhist zealot)」と評された N.Q. ダヤスらにとっては、彼女の夫に比べれば、はるかに与しやすかったであろう。実際、バンダーラナーヤカ夫人の政権の下でシンハラ人仏教徒の要求に沿う政策が次々と採用されていった。特にダヤスはシリマーウォー・バンダーラナーヤカ政権初期においてその職務を超えた影響力を発揮することになる。メッターナンダは民間の団体などを通じてその動きを支援した。

『第5章バンダーラナーヤカ夫人政権と N.Q. ダヤスでは、予期せぬ形で、そして政治的経験をほとんど欠いた状態で政治の場に登場することになったシリマーウォー・バンダーラナーヤカについてまず述べられています。

1960年の総選挙では「過激な戦闘的仏教徒諸団体」が彼女を支援したのであるが、彼女は首相就任後そうした勢力の要請に応えることに夫のようには躊躇しなかった。そのため過激なナショナリストたちは「彼ら自身の目的を達成するために利用可能な手段を新政権のなかでとうとう獲得した」と感じたのであった。実際、彼女の態度は特にシンハラ仏教ナショナリズムへの対応に関しては夫のそれとは大きく異なっていた。前章でみたように、彼女の夫はステーツマンシップを発揮してコミュニティ間の融和を図ろうとした。少なくとも彼は努力した。しかし彼女にはそのような意図は初めからほとんどなかったようにみる。

彼女のスリランカ自由党政権は、外国人の権益とマイノリティ・コニュニティ、主にタミル人とローマ・カトリック教徒に対する差別的方策を導入しました。私立学校の国有化により、カトリック教徒の学校が大きな影響を受け、シンハラ語化政策がより徹底的に推し進められ、公務員におけるシンハラ人の数は大幅に増えました。軍隊と警察も急速にシンハラ化されました。

もちろんこうした彼女の政策はタミル人からの反発と抵抗を招いた。バンダーラナーヤカ夫人の「非妥協的な熱意」によって国の危機はより深刻なものとなっていった。明らかに彼女の政治姿勢はタミル人のなかに暴力的な集団を生み出した一因となった。彼女は「タミル人の軍事的闘争の母」だともいわれた。そして1960年代前半の彼女の政権内で、おそらくもっとも強い影響力をもっていたのが N.Q. ダヤスであった。

ダヤスがどのようにバンダーラナーヤカ夫人に近づいたのかは必ずしも明らかではありませんが、夫人に重用され「自由裁量権」とまでいわれる権力を持ち、仏教徒の地位向上や仏教の国教化を目指すことになります。

いずれにしても N.Q. ダヤスはバンダーラナーヤカ夫人の側近として強力な権力を行使することになった。彼はさまざまな事項に積極的に関わった。特に、軍隊や警察の運用、政府の移民政策において強い影響力を発揮した。彼はたとえば行政組織のなかに「活動的な仏教徒団体」を設立することを進め、そして軍隊への採用は事実上 100パーセントをシンハラ人仏教徒にするよう努めた。そうすることで、「歴史的理由によって非仏教徒や非シンハラ人がこれまでもってきた圧倒的な支配力」と彼がみなすものを打ち破ろうとしに。彼が打ち倒すべき対象であると考えたものの一つに植民地時代につくられた教育制度におけるキリスト教徒の優位性があったことは明らかであった。 

1962年にはそのような政治に対する大きな危機感を抱いた、高位の士官と警察によってバンダーラナーヤカ夫人や N.Q. ダヤスらを拘束しようとするクーデター計画が立てられましたが、発覚し未遂に終わりました。この未遂事件は、軍や行政などの公的機関のさらなるシンハラ化、仏教徒化を促しました。「戦闘的な仏教徒の団体」とされる民間団体の BJB (Bauddha Jathika Balawegaya 仏教徒国民軍)が設立されたり、仏教の斎日であるボーヤ日(満月、新月、二つの半月日)を休日にする運動が行われるようになりました。両者に N.Q. ダヤスが深くかかわっていたとされます。

その後、経済状況の悪化の中で次第に生き詰まっていったバンダーラナーヤカ夫人の政権は 1964年12月に議会を解散、1965年3月の総選挙では野党であった統一国民党が政権を担うことになりました。N.Q. ダヤスは国防外交常任長官の任を解かれることになります。1966年2月には新政権に対するクーデター計画が発覚しましたが、もっとも疑われた一人が N.Q. ダヤスでした。もし成功していればダヤスを中心とした政権が生まれた可能性も否定できません。

『おわりに』では第1章から第5章までのまとめが記されていますが、本書が明らかにしようとしたカースト問題については

シンハラ仏教ナショナリズムというより高次なアイデンティティ、あるいはイデオロギーに訴えることで、カーストという特殊性、あるいは非ゴイガマであることの限界を N.Q. ダヤスは乗り越えようとしたように思える。この戦術はより過激なナショナリズムを提示し、行動することによって、あるいはその帰結として民族的な対立がさらに激しくなることによって明らかにより有効に機能した。ダヤスはシンハラ仏教ナショナリズムに基づく政策の実現を強力に求めるという点で一貫していた。

さらに、

19世紀後半からの仏教復興運動への非ゴイガマ・エリートたちの積極的な関与もまた、より高次のアイデンティティを主張することでカースト的制約を乗り越えようとする試みであったともいいうる。
別言すれば、これはカーストに対峙するのではなく、カースト的なものを回避、無視、あるいはある意味で隠蔽することでカーストを乗り越えようとする試みであったということもできるかもしれない。

と述べています。

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シンハラタミルの対立については、反政府武装組織「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」と政府が相対し、長らく内戦状態にあったこと位の知識しかありませんでした。本書を読むと、その関係を悪化させたバンダーラナーヤカ夫人政権における施策、及びこれまで明らかにされることの無かった非ゴイガマカーストのN.Q. ダヤスの果たした役割りをよく理解できます。

林明 スリランカのシンハラとタミルの対立『社会科学ジャーナル The Journal of Social Science』43 (1999) には、BC協定批判の解説として

これはパンダーラナーヤカ・チェルヴァナーヤカム協定と言います。ここでうまく収めておけばまだよかったのですが、今度は僧侶が出てきまして、これはシンハラ人に対する裏切りであるなどという演説をし、また野党側のジャヤワルダナという人が、キャンデイまで協定反対の行進をした結果、パンダーラナーヤカはせっかくまとまった協定を58年 5月に破棄してしまったのです。これは、実はとても大事な構図でして、つまり与党が民族問題解決案を提示すると、野党はそれに同意せずに、民族問題を与党攻撃のための政治の道具として利用して、与党の民族問題解決の試みには協力しないという構図です。

と記されていますが、J.R. ジャヤワルダナが 1944年にシンハラ語を公用語とするという動議を国家協議会に提出した時は、後にシンハラオンリーを主張することになるバンダーラナーヤカはそれに反対したとの本書の記述を読み直すと、さらに深い理解となります。

深夜特急3 ーインド・ネパールー 沢木耕太郎著 新潮文庫

海外旅行を懐かしみ、「深夜特急 沢木耕太郎著」を久しぶりに読み直してみました。「深夜特急 第二便」の前編が文庫本化されたのが「深夜特急 3 -インド・ネパール-」です。カルカッタ、ブッダガヤ、カトマンズ、ベナレス、カジュラホ、デリー(地名の表記は本に記されたものです)での旅の様子が描かれています。「深夜特急 第二便」の刊行が 1986年、奇しくも同じ1986年に香港から中国を訪れたのを皮切りに、1987年のネパール・インド、1988年のペルー、ボリビア、ブラジルと、バックパッカーを真似て旅行ばかりしていた頃の光景が蘇ってきます。

深夜特急 3 -インド・ネパール-

沢木耕太郎著
新潮文庫
令和2年8月1日 新版発行