Taste of Nepal JYOTI PATHAK 著

Taste of Nepal

JYOTI PATHAK 著

2007年に刊行された「Taste of Nepal」ですが、ネパール料理についてのこれ以上詳しい成書は、なかなか他には見つけることが出来ません。著者の JYOTI PATHAK さんは巻頭でこの本を著すに至った経緯を記しておられます。

This book is for anyone curious about Nepali cuisine, whether the interest stems simply from a desire to cook or to learn about a different culture.  I also hope that this book will assist first generation Nepalese living abroad, who wish to learn to cook Nepali food.  Finally, this book may also serve as a resource for people who have visited Nepal: returned Peace Corps volunteers and tourists who want recipes for the food they enjoyed in Nepal.  If I am able to preserve Nepali culture and traditions even on a small scale, this will be a great accomplishment!

との文章も綴られ、レシピ本としてだけではなく、ネパールの文化と伝統も伝える本となっています。最近は更新が止まっていますが、同名のブログも興味深い内容が満載です。巻末の Glossary の Nepali-English は ローマ字綴りのネパール語と英語の辞書の様なもので、デーヴァナーガリー文字が苦手な私の様な者にとって重宝しています。

昨年に、ほぼ閲覧専用の私の Instagram から Jyoti Pandey-Pathak さんの https://www.instagram.com/jppatak/ をフォローしました。フォローバックして下さいましたので、これまでこの web site で沢山引用させて頂いた御礼と、日本でも本書はよく読まれていることを早速お伝えしました。嬉しいことに、すぐに返事も頂けましたので、いろいろお尋ねしたいと思います。

 

 

 

 

スリランカ政治とカースト N.Q. ダヤスとその時代 1956~1965 川島耕司著 芦書房

スリランカ政治とカースト
N.Q. ダヤスとその時代 1956~1965

川島耕司著
芦書房
2019年2月25日 初版第1刷

1956年の総選挙で S.W.R.D. バンダーラナーヤカが「シンハラオンリー」政策を掲げて選挙戦を戦い、勝利したこと、そしてその妻シリマーウォー・バンダーラナーヤカがシンハラ仏教ナショナリズムに基づく政策を遂行し続けたことがスリランカにおける民族対立の深刻化に大きく寄与したことは明らかである。そしてそのどちらにおいてもカラーワの行政官であった N.Q. ダヤスはきわめて重要な役割を果たした。 

と「あとがき」で記されているように、本著はシンハラ社会にあると言われる 15の代表的なカーストのうち最高位にあるゴイガマ (Goigama) ではなく、カラーワ (Karava) の N.Q. Dias ダヤスに焦点が当てられています。

ヒンドゥ教が主たる宗教のインドやネパールの社会のカーストは良く知られていますが、スリランカの社会のカーストについては、まず『はじめに』で、以下の様に説明されています。

スリランカ社会のもつ明確な特徴の一つは、カーストに言及すること自体が強力なタブーであることである。カーストはセンシティブな話題であり、日常会話のなかでは極力回避され、公的な議論のなかにもほとんど登場しない。スリランカ政治においては、個人の権利、女性の権利、あるいはエスニックーマイノリティの権利という議論は登場するが、マージナルな地位におかれたカーストに属する人々の権利という概念はほぼ存在しない。逆に、カースト間の平等に関する問題を提起しようとする試みはしばしば非難や叱貞、あるいは侮蔑の対象となる。カーストを扱うことは、マナー違反であり、不必要で時代遅れであるとされる。あるいは、社会的結束への脅威であるとされ、意図的な社会的分断の手段であるとみられることさえある。
 その結果、カーストに関わる問題があったとしても、著しく過小評価される。カーストに関してはスリランカ社会は十分に平等主義的であるとされ、カーストを識別することには意味がないというのが「スリランカ全体に渡る標準的な反応」となっている。

とは言え、ブッダの教えそのものはカーストを否定するものですが、シンハラ人の仏教徒の間にもカーストは確実に存在してきました。

『第1章 スリランカのカーストとカラーワ』では、比較的新しい時期に南インドからスリランカに渡来した集団と考えられるカラーワを中心に、カーストについて記されています。ゴイガマより低い地位にあるとみられていたカラーワは、植民地下のプランテーション経済において、アラックなどの酒類流通などで富を蓄積し、その経済力を背景に社会的威信や政治的影響力を求めるようになります。

経済的に圧倒的な成功を収めたカラーワのエリートたちは、社会的地位の上昇と政治的影響力の拡人を求め始めた。仏教復興運動への支援はその一環であった。この運動はもともと植民地下でのキリスト教宣教師の活動への反発から生まれたものである。

しかし 1931年にドノモア憲法により男女普通選挙が導入されると、人口でも多数を占めるゴイガマが政治的支配をさらに強化し、カラーワの政治的影響力の欠如が明確となりました。

『第2章 1950年代スリランカにおける政治とカースト』では、1950年ごろのシンハラ・カーストに関し綴られています。

明らかに 1950年頃のシンハラ社会にはカーストの社会的、政治的影響は大きく残っていた。カースト規制を強制するような行為は徐々に行われなくなっていたとされるが、人々の意識においては、「地位の記憶」が強固に残り、生活をさまざまな形で規定していた。

自らのカースト内で結婚するという内婚規制が非常に厳格に守られ、食物に関する規制もまたかなり強く残っており、カースト・ヒエラルキーは厳然と存在し、低位カーストは高位カーストに対してさまざまな形で経緯を示さなければならない時代でした。

その1950年代の非ゴイガマ・カーストの注目された政治家を取り上げています。カラーワ・カーストのクララトネ Patrick de Silva Kularatne 1893-1976 は仏教復興運動の重要な成果として設立された中等教育のエリート校、アーナンダ・カレッジのみでなく、スリランカの「ほとんどあらゆる仏教徒学校」の発展に尽力しました。しかしその後の政界進出は無残なものとなりました。サラーガマ・カーストのダ・シルワ Charles Percival de Silva 1912-1972 は院内総務および国土および国土開発大臣に任命されました。1960年の総選挙ではスリランカ自由党を率いて戦いましたが敗北に終わりました。

 非ゴイガマの政治エリートたちが政治的影響力を確保することは少なくともゴイガマのエリートたちに比べれば明らかに難しかった。クララトネやダ・シルワが必ずしも十分に彼らが望む政治的活動ができなかった少なくとも一因にカーストの問題があったことは十分に想定できるのではないだろうか。少なくとも当時のスリランカ政治の観察者たちの多くにはそう思われていた。P・ダ・S・クララトネは、教育者として華々しい成功を収めながら、統一国民党内では「完全に無視」されることになった。サラーガマのC・P・ダ・シルワは、スリランカ自由党内ではかなりの地位にまで上りつめたのだが、首相になることはできなかった。カーストが彼らの政治的活動をどの程度制約したかは必ずしも明らかではない。しかし、ゴイガマが圧倒的多数を占める政界においては非ゴイガマ・カーストの政治家たちは不利であるという認識は当時の人々の間にはかなりの程度あったことは確かである。

それではこうした状況のなかで政治的野心をもつ非ゴイガマのエリートたちはどのように行動しうるのだろうか。どのような選択肢がありえたのであろうか。当時強力に台頭しつつあったシンハラ仏教ナショナリズムに深く関わり、より高次なアイデンティティにコミットすることでカースト的制約を乗り越えようという戦略はその一つになりうると思われる。

『第3章 1956年の政治変革』では、独立から1956年の政治変革に至る時期におけるシンハラ仏教ナショナリズムの展開をたどり、N.Q. ダヤスという行政官に焦点をあててカラーワ・エリートたちの動きを明らかにしようとしています。

 このように 1950年代前半には仏教と政治が深く結びつき、仏教僧や在家信者たちの間での組織化が進んだ。ただすでにみたように、当時注目された「コミュナリズム」はムスリムやキリスト教徒といった宗教的コミュニティを標的にしたものと「インド人問題」に対するものであった。マジョリティであるシンハラ人仏教徒の側からセイロン・タミル人を激しく批判するような動きは 1950年代半ばになるまでは明確には現れなかった。逆に、自国語運動 (Swabasha movement) においてはシンハラ語とタミル語の二言語をともに公用語化すべきであるという見方がかなりあった。少なくとも 1950年代初頭にはそう主張する人々は多かった。
 後にシンハラ・オンリーを激しく主張することになるS.W.R.D. バンダーラナーヤカ白身もまたタミル語をも公用語にすべきであると述べていた。

その中でダヤスは、カトリック教徒が比較的高い教育を受け、多くの要職を占め、教会を中心に組織化されていることにその政治的影響力の一因があることに注目し、同様に仏教徒も組織化されるべきと考え、シンハラ仏教ナショナリズムに深く関わっていきます。

つまり1950年代前半にはシンハラ仏教ナショナリズムが相当程度高められ、統一比丘戦線を代表とするいくつかの組織ができあがったが、この動きを組織化し、より影響力のある政治勢力として提示する役割の大きな部分を担ったのはダヤスであり、ダヤスときわめて密接な関係にあったメッターナンダ、あるいは仏教委員会の一員でもあるクララトネといったカラーワの活動家たちであった。もちろん 1950年代における仏教僧たちの政治意識の高まりや、在家信者たちへのシンハラ仏教ナショナリズムの浸透が彼らだけの力によるものではないことは明らかである。特に1930年代以降、シンハラ人仏教徒としてのアイデンティティと政治はますます密接につながりつつあった。しかしダヤスたちがきわめて精力的にその流れを組織化し、また促進したこと、そして彼らがそうすることで一定の政治的影響力を確保しようとしたことは間違いないのではないだろうか。

『第4章 S.W.R.D. バンダーラナーヤカとシンハラ仏教ナショナリズム』では、1956年に総選挙で勝利し成立したバンダーラナーヤカ政権下における、政治、宗教、ナショナリズムの展開が記されています。

 政権獲得後のバンダーラナーヤカは、特に言語政策に関しては過激なシンハラ・ナショナリストの要求を極力排除しようとした。彼はタミル語話者たちとの会談に長い時間をかけた。後述するように、彼はタミル人指導者セルワナーヤガムとの間で分権化に向けた協定を結んだ。ただ、いったん煽り立てられた民族感情をコントロールすることは明らかに困難であった。

1956年6月5日に提出された公用語法案は、基本的にはシンハラ語を唯一の公用語とするものでしたが、マイノリティへの譲歩を含むものでした。過激なナショナリストたちには到底受け入れることが出来ないものであり、その圧力により改変されることとなり、タミル人たちによる「サティヤグラハ」という抗議活動と、その後の反タミル暴動を招くこととなり、スリランカにおける民族対立が深刻化していきました。

基本的に融和的な政治姿勢をとろうとしたバンダーラナーヤカを激しく非難した 1人がカラーワ・カーストの L.H. メッターナンダでした。N.Q. ダヤスと共にシンハラ仏教ナショナリズムに深く関与し、バンダーラナーヤカを勝利に導いた 1956年の選挙戦において仏教僧を組織した重要な人物でした。N.Q. ダヤスが新政権成立後文化局長として政府内において一定の役割を果たしたのに対し、L.H. メッターナンダは政府職に就きませんでした。

両者の関係が実際にどのようなものであったかは必ずしも明らかではないが、ダヤスがその財力と影響力によってメッターナンダの言論活動を支えていたという可能性は十分にあると思われる。イギリスの政府文書には、メッターナンダは N.Q. ダヤスの「表看板 (front man)」であるとも記されている。

公用語法案の他にも、バンダーラナーヤカは自らの「政治的手腕」によりマイノリティにも配慮した政策を遂行しようとしました。1957年の BC協定もそのひとつです。

BC協定(バンダーラナーヤカ・セルワナーヤガム協定、Bandaranaike-Chelvanayakam Pact)はバンダーラナーヤカとスリランカ・タミル人を代表する連邦党の S.J.V. セルワナーヤガムとの妥協の上に成立したものであった。この協定のなかでタミル人たちはタミル語をシンハラ語と同等の地位にあるものとして扱うよう求める要求を放棄した。また彼らはそれまで進めてきたサティヤグラハ運動を停止するとした。一方で政府は、タミル語をマイノリティの言語として扱い、北部や東部の行政機関で使用することを認め、また、教育や農業、あるいはシンハラ人のタミル地域への入植を管理する権限を地域評議会に与えるというものであった。両者の合理的な妥協の上に成立したこの協定は民族問題解決に向けての出発点としては非常によくできたものであったとみられている。しかし議会内の両陣営からは激しく攻撃されることになった。 

メッターナンダをはじめとして、このBC協定批判が繰り返され、シンハラ人とタミル人の対立はますます激しいものとなり、1958年には大暴動も発生しました。そのような状況の中、1959年9月にバンダーラナーヤカが暗殺されます。「バンダーラナーヤカ暗殺」の項では、暗殺の首謀者とされるブッダラッキタの人物像や政界との入り組んだ人間関係が記されています。この暗殺には不可解な部分も多く、さまざまな憶測が流れましたが、首相の妻であったシリマーウォー・バンダーラナーヤカが首相となり、結果的にみれば過激なシンハラ仏教ナショナリストたちにとっては明らかにより好ましい状況がもたらされました。

「確固とした自らの政治哲学は全くもたず」、シンハラ至上主義的心情に疑問をもつことも、それを隠すことをもしなかったパンダーラナーヤカ夫人は、過激なシンハラ仏教ナショナリストたちにとっては明らかに好都合な指導者であった。「狂信的な在家信者 (fanatical layman)」と呼ばれた L.H. メッターナンダや「仏教への熱狂者 (Buddhist zealot)」と評された N.Q. ダヤスらにとっては、彼女の夫に比べれば、はるかに与しやすかったであろう。実際、バンダーラナーヤカ夫人の政権の下でシンハラ人仏教徒の要求に沿う政策が次々と採用されていった。特にダヤスはシリマーウォー・バンダーラナーヤカ政権初期においてその職務を超えた影響力を発揮することになる。メッターナンダは民間の団体などを通じてその動きを支援した。

『第5章バンダーラナーヤカ夫人政権と N.Q. ダヤスでは、予期せぬ形で、そして政治的経験をほとんど欠いた状態で政治の場に登場することになったシリマーウォー・バンダーラナーヤカについてまず述べられています。

1960年の総選挙では「過激な戦闘的仏教徒諸団体」が彼女を支援したのであるが、彼女は首相就任後そうした勢力の要請に応えることに夫のようには躊躇しなかった。そのため過激なナショナリストたちは「彼ら自身の目的を達成するために利用可能な手段を新政権のなかでとうとう獲得した」と感じたのであった。実際、彼女の態度は特にシンハラ仏教ナショナリズムへの対応に関しては夫のそれとは大きく異なっていた。前章でみたように、彼女の夫はステーツマンシップを発揮してコミュニティ間の融和を図ろうとした。少なくとも彼は努力した。しかし彼女にはそのような意図は初めからほとんどなかったようにみる。

彼女のスリランカ自由党政権は、外国人の権益とマイノリティ・コニュニティ、主にタミル人とローマ・カトリック教徒に対する差別的方策を導入しました。私立学校の国有化により、カトリック教徒の学校が大きな影響を受け、シンハラ語化政策がより徹底的に推し進められ、公務員におけるシンハラ人の数は大幅に増えました。軍隊と警察も急速にシンハラ化されました。

もちろんこうした彼女の政策はタミル人からの反発と抵抗を招いた。バンダーラナーヤカ夫人の「非妥協的な熱意」によって国の危機はより深刻なものとなっていった。明らかに彼女の政治姿勢はタミル人のなかに暴力的な集団を生み出した一因となった。彼女は「タミル人の軍事的闘争の母」だともいわれた。そして1960年代前半の彼女の政権内で、おそらくもっとも強い影響力をもっていたのが N.Q. ダヤスであった。

ダヤスがどのようにバンダーラナーヤカ夫人に近づいたのかは必ずしも明らかではありませんが、夫人に重用され「自由裁量権」とまでいわれる権力を持ち、仏教徒の地位向上や仏教の国教化を目指すことになります。

いずれにしても N.Q. ダヤスはバンダーラナーヤカ夫人の側近として強力な権力を行使することになった。彼はさまざまな事項に積極的に関わった。特に、軍隊や警察の運用、政府の移民政策において強い影響力を発揮した。彼はたとえば行政組織のなかに「活動的な仏教徒団体」を設立することを進め、そして軍隊への採用は事実上 100パーセントをシンハラ人仏教徒にするよう努めた。そうすることで、「歴史的理由によって非仏教徒や非シンハラ人がこれまでもってきた圧倒的な支配力」と彼がみなすものを打ち破ろうとしに。彼が打ち倒すべき対象であると考えたものの一つに植民地時代につくられた教育制度におけるキリスト教徒の優位性があったことは明らかであった。 

1962年にはそのような政治に対する大きな危機感を抱いた、高位の士官と警察によってバンダーラナーヤカ夫人や N.Q. ダヤスらを拘束しようとするクーデター計画が立てられましたが、発覚し未遂に終わりました。この未遂事件は、軍や行政などの公的機関のさらなるシンハラ化、仏教徒化を促しました。「戦闘的な仏教徒の団体」とされる民間団体の BJB (Bauddha Jathika Balawegaya 仏教徒国民軍)が設立されたり、仏教の斎日であるボーヤ日(満月、新月、二つの半月日)を休日にする運動が行われるようになりました。両者に N.Q. ダヤスが深くかかわっていたとされます。

その後、経済状況の悪化の中で次第に生き詰まっていったバンダーラナーヤカ夫人の政権は 1964年12月に議会を解散、1965年3月の総選挙では野党であった統一国民党が政権を担うことになりました。N.Q. ダヤスは国防外交常任長官の任を解かれることになります。1966年2月には新政権に対するクーデター計画が発覚しましたが、もっとも疑われた一人が N.Q. ダヤスでした。もし成功していればダヤスを中心とした政権が生まれた可能性も否定できません。

『おわりに』では第1章から第5章までのまとめが記されていますが、本書が明らかにしようとしたカースト問題については

シンハラ仏教ナショナリズムというより高次なアイデンティティ、あるいはイデオロギーに訴えることで、カーストという特殊性、あるいは非ゴイガマであることの限界を N.Q. ダヤスは乗り越えようとしたように思える。この戦術はより過激なナショナリズムを提示し、行動することによって、あるいはその帰結として民族的な対立がさらに激しくなることによって明らかにより有効に機能した。ダヤスはシンハラ仏教ナショナリズムに基づく政策の実現を強力に求めるという点で一貫していた。

さらに、

19世紀後半からの仏教復興運動への非ゴイガマ・エリートたちの積極的な関与もまた、より高次のアイデンティティを主張することでカースト的制約を乗り越えようとする試みであったともいいうる。
別言すれば、これはカーストに対峙するのではなく、カースト的なものを回避、無視、あるいはある意味で隠蔽することでカーストを乗り越えようとする試みであったということもできるかもしれない。

と述べています。

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シンハラタミルの対立については、反政府武装組織「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」と政府が相対し、長らく内戦状態にあったこと位の知識しかありませんでした。本書を読むと、その関係を悪化させたバンダーラナーヤカ夫人政権における施策、及びこれまで明らかにされることの無かった非ゴイガマカーストのN.Q. ダヤスの果たした役割りをよく理解できます。

林明 スリランカのシンハラとタミルの対立『社会科学ジャーナル The Journal of Social Science』43 (1999) には、BC協定批判の解説として

これはパンダーラナーヤカ・チェルヴァナーヤカム協定と言います。ここでうまく収めておけばまだよかったのですが、今度は僧侶が出てきまして、これはシンハラ人に対する裏切りであるなどという演説をし、また野党側のジャヤワルダナという人が、キャンデイまで協定反対の行進をした結果、パンダーラナーヤカはせっかくまとまった協定を58年 5月に破棄してしまったのです。これは、実はとても大事な構図でして、つまり与党が民族問題解決案を提示すると、野党はそれに同意せずに、民族問題を与党攻撃のための政治の道具として利用して、与党の民族問題解決の試みには協力しないという構図です。

と記されていますが、J.R. ジャヤワルダナが 1944年にシンハラ語を公用語とするという動議を国家協議会に提出した時は、後にシンハラオンリーを主張することになるバンダーラナーヤカはそれに反対したとの本書の記述を読み直すと、さらに深い理解となります。

深夜特急3 ーインド・ネパールー 沢木耕太郎著 新潮文庫

海外旅行を懐かしみ、「深夜特急 沢木耕太郎著」を久しぶりに読み直してみました。「深夜特急 第二便」の前編が文庫本化されたのが「深夜特急 3 -インド・ネパール-」です。カルカッタ、ブッダガヤ、カトマンズ、ベナレス、カジュラホ、デリー(地名の表記は本に記されたものです)での旅の様子が描かれています。「深夜特急 第二便」の刊行が 1986年、奇しくも同じ1986年に香港から中国を訪れたのを皮切りに、1987年のネパール・インド、1988年のペルー、ボリビア、ブラジルと、バックパッカーを真似て旅行ばかりしていた頃の光景が蘇ってきます。

深夜特急 3 -インド・ネパール-

沢木耕太郎著
新潮文庫
令和2年8月1日 新版発行

パニワラル 駐日スリランカ大使が見た日本 ダンミカ・ガンガーナート・ディサーナーヤカ著 浮岳亮仁訳 創英社/三省堂書店

パニワラル -駐日スリランカ大使が見た日本-

ダンミカ・ガンガーナート・ディサーナーヤカ著
浮岳亮仁訳
創英社/三省堂書店
令和元年9月14日初版発行

「カラピンチャ Karapincha」さんの SNS、ブログで紹介されていましたので、購入して読みました。

ご存知の方も多いと思いますが、この著者であるダンミカ氏は駐日スリランカ大使として2019年末まで勤められ、翌2020年8月にご病気のためスリランカで亡くなりました。この書籍は、亡くなられる約一年弱前に出版されたものです。(中略)そのダンミカ氏がスリランカの大手新聞「Lanka Deepa」紙に10年弱連載していたコラムのタイトルが「パニワラル」です。その多数のコラムの中から、訳者である浮岳亮仁氏が、ダンミカ氏の少年時代の話、日本留学時代の話、大使就任後の話などを選んで、日本語に翻訳したものがこの書籍「パニワラル 駐日スリランカ大使が見たニッポン」です。

訳者の浮岳亮仁氏が巻末で「ダンミカ先生と私」として

読者の皆さんにもスリランカの文化の香りを感じると同時に、先生が見たニッポンを通じ、何かを再発見していただければと思います。

と、記されているように、本の前半「パニワラル」「母」「亡き人たち」「父」などではスリランカの生活、風習などが垣間見えます。「親任式棒呈式」では、関係者以外はうかがい知ることができない、その式典の様子が詳細に記され、以降の章では、日本の日常生活の暖かな言葉での紹介が並びます。

 

 

 

 

ナマステの国の神々 ―ネパールの赤い世界 川口敏彦著 叢文社

ナマステの国の神々 ―ネパールの赤い世界

川口敏彦著
叢文社
2001年10月17日 初版第1刷

著者は、『はじめに―「赤の世界」』で、

一歩この盆地に足を踏み入れると、この地域が全アジアから見てもきわめて特殊な地域とすぐに気づくに違いない。そこには神々が住んでいるのだ。赤く染まった神の居場所は、街のいたるところにある。「カトマンドゥ盆地は赤であふれている」という印象は、つまるところ、神が街の中にいっぱいいるということなのだ。

と記しているように、日常生活に溶け込んだ街中の神の写真が多く載せられています。写真を眺めているだけでカトマンドゥ盆地の街を散策している気分です。バクタプルで出会ったというヒンドゥの神に詳しいガイド、パサンタや、街で出会った人々の説明が神々の解説となっています。宗教と生活が一体となったネパールの人々の暮らしを理解するには、神々の意味を理解することが手始めになります。

『頭蓋骨のお椀』の章で、著者は、ダルバール広場の破壊神シヴァ神の化身である、カーラ・バイラヴ像について、

私が持っている常識では、神が持っている頭蓋骨のお椀にお供え物を置いていく人々のことをどうしても理解できそうになかった。

との感想を記しています。シヴァ神が破壊と共に再生、生殖、時には病を治す神でもあり、人々の人気を集め、マハー・シヴァラートリーでその威光を讃えられていることなど、他の宗教を知ることは難しいことです。30数年前、初めてネパールを訪れた私は何も知りませんでした。

写真は、2017年に訪れた際に撮った、カーラ・バイラヴ像です。

ニューエクスプレス +(プラス)シンハラ語 野口忠司著 白水社

ニューエクスプレス +(プラス)シンハラ語

野口忠司著
白水社
2021年3月10日発行

「カラピンチャ Karapincha」さんの SNS とブログで、シンハラ語入門の貴重な書として紹介され

この書籍は、2016年に発売されました「ニューエクスプレス シンハラ語/野口忠司著」の増補版として2021年2月15日に発売されました。前回の書籍もカラピンチャ店舗で販売しておりましたが、しばらくの間、完売で欠品となっておりました。

この著者である野口忠司先生は、セイロン大学東洋学部(シンハラ語・シンハラ文学先行)出身。日本におけるシンハラ語の研究の第一人者者で「シンハラ語・日本語辞典」をはじめ多数のシンハラ語に関する著書があります。多くのシンハラ語の書籍の翻訳もされてきました。また、大学や外務省、国際協力機構などでもシンハラ語の講師を勤めて来られました。(中略)そんな先生は先日、2021年4月13日(スリランカの旧暦で大晦日に当日)に他界されました。(中略)カラピンチャとしましても、先生が残してくれた貴重な書籍を、より多くの人に手にとってもらえるよう努めていきたいと強く思いました。

店頭でも販売されていますので、購入しました。

阪急神戸線王子公園駅近くのお店で頂ける美味しい料理は
→「カラピンチャ Karapincha(神戸市)」

カラピンチャ Karapincha

神戸市灘区王寺町1-2-13

http://karapincha.jp/blog/
https://twitter.com/karapinchajp
https://ja-jp.facebook.com/karapincha.jp/
https://www.instagram.com/karapincha_jp/?hl=ja

 

 

 

 

 

シリコンバレー式 自分を変える最強の食事 デイヴ アスプリー著 栗原百代訳 ダイヤモンド社

シリコンバレー式 自分を変える最強の食事
デイヴ アスプリー著 栗原 百代訳
ダイヤモンド社
2015年9月

https://diamond.jp/category/s-siliconvalleymeal

The Bulletproof Diet : Lose up to a Pound a Day, Reclaim Energy and Focus, Upgrade Your Life
Dave Asprey

以下は個人的な体験談であり、同じ方法をどなたにも勧めるものではありません。

どうもストレスがあるとやたらに食べたくなる体質の様で、何年も前にこの本を読んだ当時、体重増加と血糖値の上昇に気が付き、物は試しに実践してみました。朝食は摂らずに、グラスフェッド牛の無塩バターと MCTオイル(ココナッツから抽出した中鎖脂肪酸オイル)を加えた「完全無欠」コーヒーだけを飲むというものです。グラスフェッド牛の無塩バターまたはその代替品を手に入れるのに苦労した覚えがあります。しかし本質は 6 : 18 ダイエット、1日のうちに18時間の断食(何も食べない時間を作る)というものです。仕事をしている者にとっては、この設定はハードルが高く、8 : 16 ダイエット、1日のうち16時間の断食を試しました。最初は確かに、空腹感のピークが午前中の仕事時間にやってきましたが、すぐに慣れました。短期間のうちに、体重を減らすことが出来、血糖値も正常範囲内に戻りました。

新型コロナ騒動のストレスからか、また最近間食をついつい摂ってしまい、体重のリバウンドは少しでしたが、血糖値が上昇していることが血液検査で分かり、再度 8 : 16 ダイエットと糖質制限を再開しました。このところの朝食はトースト 1枚とコーヒーだけでしたので、そのトーストを抜くだけです。コーヒーも以前の様な「完全無欠コーヒー」ではなく、ただのストレートコーヒーです。午前中の仕事のあいだはミネラルウォーターをしっかり飲みます。昼食はもともと、タッパーにサラダを入れ、小さなおにぎり一つと一緒に職場に持参していたので、あまり変化はありません。血糖値上昇対策としてまずサラダをゆっくりと時間をかけて食べることに注意を払うようにはしました。ついつい口にしていた間食は完全に止めです。夕食もまず野菜を時間をかけ食べ、その後に蛋白質を多めに摂ることとし、炭水化物は極力避けます。ウィスキーのソーダ割の晩酌もしばらくお預けです。外食の際は、お店の方に理由を言ってライスは少なめにしてもらいます。

2回目の 8 : 16 ダイエットはすんなりと軌道に乗りました。午前中の空腹のしんどさは感じません。10日間で、空腹時の血糖値は正常域に近づき、体重もベスト体重にすぐに戻りました。

食から描くインド 近現代の社会変容とアイデンティティ 井坂理穂・山根聡 編 春風社

食から描くインド
近現代の社会変容とアイデンティティ

井坂理穂・山根聡 編
春風社
2019年2月21日初版発行

単一の著者ではなく、編者井坂理穂氏の以下のような想いに沿って、様々な切り口で複数の専門家が記した文章が並びます。それもそのはず、日本学術振興会・科学研究費補助金(科研費)を得て行われた研究「近現代インドにおける食文化とアイデンティティに関する複合的研究」の成書でもあります。

本書は、人々が自分たちの食べるものをどのように選択してきたのか、という問いを切り口としながら、近現代インドの社会変容を描き出すものである。何をどのように食べるのかという選択は、日常的に何気なく行われていることが多いが、実はそこには、その大を取り巻く様々な政治的・経済的・社会的状況が関係している。その人が食に関してどのような知識や情報をもっているのか(例えば栄養学の知識など)、どのような思想をもっているのか(例えば食の安全についての考え方など)といった点も、食の選択に影響を及ぼす。さらには、その人の生まれ育った環境や社会的地位、宗教的アイデンティティなども、何を食べるか、どのように調理するかを左右する。「食は人なり(We are what we eat)」という言葉があるが、食のあり方は、まさにそれを選択した人々や彼らを取り巻く社会のありさまを象徴的に映し出している。
本書では、こうした点を意識しながら、インドにおける様々な個人・集団による食の選択やそれにまつわる模索・対立の事例を、料理書や回顧録、文学作品などの分析、現地での聞きとり調査などの異なるアプローチから考察する。あらかじめお断りしたいのは、本書が「インド食文化」を総体的にバランスよく描き出すことを目的としたものではない、という点である。ここで目指しているのは近現代インドにおける個人や集団の食の選択に関する興味深い事例を掘り下げながら、そこから見える人々の自己・他者認識や、その背景にある社会の変容を探ることである。その過程で、ともすると我々が食を語る際に前提としている「国」「地域」「宗教」などの区分や境界についても、改めて問い直されることになるだろう。

インド料理と言えばすぐに宗教と結び付けてしまいますが、序章で同氏は

とはいえ、人々の宗教との関わり方には個人差があり、生い立ちや個々人の考え方、そのときどきの状況によって、宗教上の規定や慣習をどのように解釈し、どこまで遵守するかはまちまちである。また同じ個人であっても、家では食の禁忌を守るが外食時にはこれらに縛られないという場合もある。あるいは、宗教上は肉食が許されていても、経済的な迎由や、宗教の慣習に洽ったかたちで処理された肉が人手できないなどの理由から、実質的に菜食中心の食生活になる場合もある。宗教コミュニティの成員が一律に同じ食の選択を行うというわけではないことを、改めて強調しておきたい。 

と、ステレオタイプな捉え方に注意を促されています。ネパールにおけるヒンドゥー教徒の豚肉の摂取の話をネパールの方に尋ねた時にまさしく感じたことです。→「ネパールにおける豚肉事情」

Ⅰ 食からみる植民地支配とナショナリズム
第1章 19世紀後半の北インドにおけるムスリム文人と食-郷愁と動揺 山根聡
第2章 インドのイギリス人女性と料理人-植民地支配者たちの食生活 井坂理穂
第3章 ナショナリズムと台所-20世紀後半のヒンディー語料理書 サウミヤ・ダブタ(上田真啓訳)
第4章 現代「インド料理」の肖像―はじまりはチキンティッカー・マサーラーから 山田桂子

II 食をめぐる語り
第5章 一口ごとに、故郷に帰る―イギリスの南アジア系移民マイノリティの紡ぐ食の記憶と帰属の物語 浜井祐三子
第6章 買う・つくる・味わう―現代作家が描く食と女性 小松久恵

Ⅲ 変動する社会と食
第7章 もの言う食べ物-テランガーナにおける地域アイデンティティと食政治 山田桂子
第8章 飲むべきか飲まぬべきか―ベンガール市でのフィールドワークから 池亀彩
第9章 ハラール食品とは何か―イスラーム法とグローバル化 小杉泰

コラム1 中世のサンスクリット料理書 加納和雄
コラム2 「宗教的マイノリティ」意識と食-近現代インドのパールシー 井坂理穂
コラム3 スパイス香るインドの食卓 小磯千尋
コラム4 マハーラシュトラの家庭料理-プネーのG家の場合 小磯千尋
コラム5 日本における「カレー料理」と「インド料理」 山根聡
コラム6 ジャイナ教の食のスタイルとその背景 上田真啓

 

ホーチミン・ルート従軍記 ある医師のベトナム戦争 1965 – 1973 レ・カオ・ダイ著 古川久雄訳 岩波書店

ホーチミン・ルート従軍記
ある医師のベトナム戦争 1965 – 1973

レ・カオ・ダイ著 古川久雄訳
岩波書店
2009年4月17日 第1刷発行

ベトナム戦争の報道や出版の多くは、というより殆どすべてが「南」側からのものでした。報道規制が敷かれなかったため、南側の戦闘行為等が世界で批判の対象となり反戦運動に繋がりました。他方、「北」側からの報道や出版は皆無で、後に明らかになった解放戦線や「北」正規軍の秘密処刑や、住民に対する無差別の殺戮の事実は伏せられたままで、白日に曝されることはありませんでした。長い年月が経過し亡命で自由な立場となった元解放戦線幹部の証言を待つしかありませんでした。→ 「裏切られたベトナム革命 チュン・ニュー・タンの証言」

本書は「北」の一従軍医師の立場で記されたベトナム戦争の体験記、という意味で貴重とされます。行軍の際に当然地元民に無理を強いたり、場合によってはそれ以上の行為があったことは想像に難くありませんが、「北」や組織にとって都合の悪い事は記されていません。

特別任務「グループ84」に選抜された筆者たち医療チームが、設備や物資の無い野戦病院で、なんとか医療を成り立たせるためにレントゲンをはじめとして検査装置の組み立てや診療体制の構築から、いかに緊急手術等の医療活動を行ったかについては、関心と驚きで読みごたえがあります。

著者レ・カオ・ダイ氏の経歴は、夫人が日本語版への序文で紹介されています。

ダイ医師はハノイの医学大学に学び、一九四六年に卒業、八月革命後最初の卒業世代でした。卒業後、陸軍に入り、三〇八師団第八八連隊の筆頭軍医として北部ラオスやホアビン、ハ・ナム・ニン作戦に従軍しました。医学面では胸郭手術にすぐれ、一〇八、一〇三陸軍病院や陸軍医療研究所で教鞭をとりました。一九六六年に夫は中部高原戦線へおもむき、深いジャングルの中の中心的な病院で務めを果たしました。

ホーチミンルート(Ho Chi Minh Trail ホーチミントレイル)は、「北」が物資や人員を解放戦線へ届けるように、網の目のような交通路を、ベトナム国内の北緯17度線を横切るのではなく、ラオスやカンボジアを通るルートで確保したものです。一方で海上輸送の拠点としたカンボジアのシアヌークビルの港からカンボジア国内を通る Sihanouk Trail シアヌークトレイルも重要な役割を果たしたとされます。

巻末で、ベトナム史が専門の古田元夫氏が、これら補給路の病院での医療活動の意義を解説されています。

ベトナム戦争で米国は、ベトナムの革命勢力にその補給能力を超えた打撃を与えるという「消耗戦略」を、その基本的な戦略とした。革命勢力の軍事要員の「消耗率」は、この米軍の戦略の成否にかかわっていた。ベトナム人民軍の医療活動は、ベトナム戦争で多大な犠牲をしいられつつも、それを南ベトナムに展開している革命側兵力の大幅な減退という事態にはつながらない水準に制御する上で、大きな貢献をした。本書で描かれたレ・カオ・ダイのホーチミンートレイルの病院での活動は、このような意味で、ベトナム戦争の帰趨に大きく関わっていたのである。 

 

食べ歩くインド インド全土の料理と食堂案内 北・東編 南・西編 小林真樹著 有限会社旅行人

食べ歩くインド
インド全土の料理と食堂案内
北・東編、南・西編

小林真樹 著
有限会社旅行人
2020年8月15日 初版第一刷発行

「アジアハンター」さんの小林真樹氏が著された本書、写真を見ているだけでインドを旅して食堂に入った気分になります。前書きで著者は、

インドにやって来たイギリス人によって「発見」されたカレーが、本国に持ち帰られ一料理名として定着し、それがやがて日本にも伝来したという話は巷間広く知られています。その語源となった、元来南インドで「香辛料を用いた炒め物」といった意味合いで使われていた「カリ(Kari)」という言葉は、イギリス大より先にインドに入植していたポルトガル人の言葉に取り込まれ、それが英語にも取り込まれていったといわれています。やがてその言葉は香辛料で味付けされた、主としてアジア・中東・アフリカ圏発祥の料理を指す便利な呼称として世界中に定着し、さらに発祥国インドにも逆輸人される形で現在に至っています。(中略)

事実インドを旅すると、宗教、民族、カースト、生活環境などによって細分化された様々な食が存在することに気づかされます。一見自由で無秩序のように見えるインド人ですが、例えばイスラーム教徒は北東インドの美味しい豚肉料理を食べられず、ジャイナ教徒は油の浮いたハラールのマトン料理に舌鼓を打てません。一方私たち日本人は、こうした社会的呪縛や宗教的しがらみから自由でニュートラルな立場にいます。このせっかくの立場をフルに活かし、西に美味しい料理があると聞けば食べに行き、東に珍しい料理があると聞けば行って食べるといったことを繰り返しているうちに、集積していった食情報が本書の土台となっています。

と記されている通り、様々な背景を持つインド料理を詳細に紹介されています。