人気飲食チェーンの本当のスゴさがわかる本 稲田俊輔著 扶桑社新書

人気飲食チェーンの本当のスゴさがわかる本

稲田俊輔著
扶桑社新書
2019年11月1日初版第1刷発行

著者稲田俊輔氏が携わっておられる「エリックサウス ERICK SOUTH」さんが大阪に西天満店をオープンされましたので、改めて読み直してみました。第1章 サイゼリアに見る「チェーン店進化論」、第2章 食のプロが唸ったファミレスチェーンのポイント、第3章 ファストフードを侮るなかれ、第4章 メジャーチェーンを脅かすライバルたちで構成されています。よく考えられてチェーン展開されている「エリックサウス ERICK SOUTH」さんこそが、本当のスゴさをもった人気飲食チェーンではないかと思うに至ります。

氏の Twitter も示唆に富みます。

https://twitter.com/inadashunsuke
https://twitter.com/inamasalasuke

本書からその内容を抜粋しますと

 「原理主義」という言葉があります。もともとはキリスト教の用語で、聖書に書いてあることは一言一句に至るまで全て正しい、とする考え方です。それがイスラム教など他の宗教にも転用されたり、もっと近代的な経済学などの学説に関しても使われたりします。飲食の世界で「原理主義」というと、主にエスニック料理愛好家の間で「外国の料理は現地そのままのスタイルや味わいこそ最もおいしく価値があり、いたずらに日本人の一般的な嗜好に合わせてアレンジするべきではない」といった考え方に対して使われます。その場合のアレンジは(あくまで否定的な意味を込めて)「ローカライズ」と呼ばれたりもします。コアなエスニック愛好家は基本的に誰もが原理主義者的な一面を持ちますが、同時に行きすぎたあまりに非生産的な狭量さに向かうことに対しては、それこそ「宗教的」である、という理由で批判的であったりもします。
 正直に告白すると、私白身も基本的にそういった「原理主義者」の一人です。インド料理やタイ料理などのエスニック系に限らず、フレンチでも中華でもイタリアンでも、突きつめると結局「本場そのまま」のスタイルや味わいが一番おいしくて楽しいという結論に至ることがほとんどです。少なくとも自分ではそれが宗教的な妄信というわけではないと思っています。あくまでこれまでの経験則なのですが、本場そのままというのは当初こそ違和感があったり極端な場合はおいしくないと感じることがあっても、少し慣れてくるとあるとき突然、それがたまらない魅力に変わるという瞬問を何度も経験してきました。だからと言って「ローカライズ」を全否定するつもりはもちろんありません。あくまで本場の良さを完全に理解して最大限尊重したうえでの真摯なローカライズならそれもまた大きな価値があり、場合によっては元の料理を進化させる可能性だってあるからです。

エスニック料理における「原理主義」を分かりやすく解説され、

 日本の消費者はシビアだとよく言われますが、これは「狭量」と紙一重。自分が知らないものには手を出さない、一度食べて少しでも違和感があったら全否定して二度と手を出さない、みたいな保守性は、飲食店の数が増え、しかも品質的に全体のレベルが上がり過当競争が進む現代、ますます進行しているように思えます。個人店であってもそんな流れに上手に合わせていかないと店を守ることはとても難しい、ということになってしまいます。
 そんななか、サイゼリヤの、場面によっては一般的な個人店のそれをやすやすと超えることもある本場志向は、「よくあるチェーンファミレスとは一味違う」という強力な差別化につながっていると言えるのではないでしょうか。

消費者行動と飲食店の立ち位置の考察から、食べログの正しい使い方まで述べておられます。

あくまで個人的な基準ですが、スペイン料理に限らずイタリアンやフレンチあたりは「オイリー」「塩気が強い」「香草がキツい」系の低評価レビューがある店に大当たりが多いようです。和食や居酒屋の「料理によって当たり外れが大きい」は、使い方が少し難しいかもしれないけど楽しめる店。カレーやインド料理だと「コクや深みが感じられない」は、これは中華でもある程度共通します。中華といえばもう一つ「日本人には合わない」&「店員も客も中国人ばかり」のコンボも鉄板。ラーメン屋なら「ラーメンごときにこの値段はない」。あと老舗における「接客が最悪」も接待やデートでさえなければ狙い目。・・・と、こんな具合に当たりに出会いやすい悪ロキーワードを知っておくと、食ベログでのお店選びはぐんと捗るようになるはずです。手始めに、自分かお気に入りでよく通っている店の食ベログページを開いて、低評価レビューを探して読んでみてください。いくつかのお店でそれをやるうちに、だんだんコツが掴めてくると思います。

早速、食べログを覗いて、某店のダルバートについての投稿を例に考察してみましょう。

正直に言って微妙でした。。まず、副菜4種の量が残念だったのと、味が現地そのままっぽくて、苦味と辛味をダイレクトに感じる味わいが少しキツかったです。ダルカレーも甘さがなく複雑な味。逆にチキンカレーは甘ったるいぐらいの味。んーーーって感じでした。

副菜4種の量が残念だった ⇒ ダルバートは副菜が少しずつ並ぶことをご存じないのでしょう。もっと副菜の一品の量が少ない店の方が多いのに、、、
味が現地そのままぽくって ⇒ 最大の賛辞、、、
苦味と辛味をダイレクトに感じる ⇒ 限られたスパイスで野菜の味を楽しむのがネパールのアチャールやタルカリの本質、、、
ダルカレーも甘さがなく複雑な味 ⇒ ダルは豆自体の味を楽しむもので、甘いダル「カレー」は、、、

稲田流の読み方をすると、訪問意欲がわく投稿です。

「悪魔祓い」の戦後史 稲垣武著 文春文庫

「悪魔祓い」の戦後史

稲垣武著
文春文庫 株式会社 文藝春秋
1997年8月10日 第1刷

ベトナム旅行の前後で、ベトナム戦争とは何だったのか理解するために、数多くの書物を読み、web 上で検索もしました。ベトナム戦争の解釈、右もあれば左もあり、荒唐無稽なものもあります。その中で、様々なものを読みながら、対比させていく上で最も参考になるのがこの1冊です。「はじめに」で、著者は

 九一年末のソ連崩壊で、戦後長らく論壇を支配していた進歩的文化人も、遂に引導を渡され、ソ連の道連れとなって歴史の舞台から退場した。しかしこの検証と論考は、いまさら彼等の言説の非や錯誤をあげつらうのが目的ではない。彼等の現実の推移から遊離した思考がどこから由来し、どこにその歪みの原因があるのかを追究しようと試みたものである。
 彼等の思考法は、日本人、とりわけその知識層が伝統的に陥りやすいスタイルと運動法則を持っていると言える。戦前・戦中、日本を支配した全体主義的思考、現実の裏付けを欠いた願望のみが自己肥大して遂には単なる夢想に至る過程、仮想のユートピア(戦前はナチスードイツ、戦後はソ連・中国)を求めてそれに拝脆し、その幻影を基礎に日本の現状を論難し模倣させようとする傾向など、戦後の進歩的文化人のたどった軌跡と驚くほど類似している。右翼と左翼の違いはあれ、それは表の看板だけで、頭の構造は同一ではないかと疑われるほどだ。
 自分と異なった意見に対しては全く不寛容で、異常なほどの敵意を抱き、大声で言いまくることで相手を圧倒しようとする性癖まで瓜二つである。テレビの討論番組で見かける声だけが大きい進歩的文化人のモノマニアックな言動は、昔の柄の悪い関東軍参謀の姿を髣髴とさせるではないか。

と記します。ベトナム戦争に関する記述は、この本の後半、第 14章「ヴェトナム戦争 – 錯誤の原点」からになります。

アメリカの敗北はまた、ヨーロッパや日本のジャーナリズムによるヴェトナム戦争批判によって西欧でも日本でもヴェトナム反戦運動が広まったことによる、西側世界での孤立感によっても大いに助長された。しかし欧米の報道・言論と日本のそれとの間には歴然とした差があった。欧米のそれはヴェトナム戦争の段階的な質的変化をおおむね正しくトレースしていたが、日本の報道や言論はそれには気付かないか、意図的に無視して当初の民族解放戦争という図式に最後まで固執した。

(中略)

こういう手のこんだ謀略宣伝工作に、西側、特に日本のジャーナリスト、進歩的文化人らがコロリと朧着され「解放戦線は非ヴェトナムの影響を受けているかもしれないが、その主体は民族独立を望む広汎な南ヴェトナム民衆の統一戦線である」と誤認したのも無理からぬ話であった。

(中略)

しかしこの種の政治工作は共産党の常套手段であり、主敵を倒すまでは広汎な反政府勢力を結集するために民族統一戦線を看板に掲げるものの、目的を達成して自らが権力を握るや否や、直ちに仮面をかなぐり捨てて昨日の友を容赦なく切り捨て、一党独裁体制を築くのもまた共通のパターンである。

(中略)

だから、「南」解放戦線の実態も、共産党のワン・パターンの政治戦略を知っていれば容易に推測できた筈である。しかしこういった指摘をする専門家は「職業的反共屋」という汚名を着せられて顧みられなかったようである。

1964年8月2日のトンキン湾事件後、1965年2月の北ベトナム爆撃の際、

日本のマスコミ、論壇、進歩的文化人らは沸騰した。朝日新聞を筆頭とする各紙は、ほぼ一致して北爆を非難する論陣を張った。四月二〇日には、大内兵衛・大佛次郎・谷川徹三・宮沢俊義・我妻栄を発起人とし、阿部知一丁家永三郎・中野好央・野上弥生子・都留重人・日高六郎・加藤周一ら進歩的文化人らばかりではなく、大岡昇平・開高健・堀米庸三ら中立的な作家・学者までを網羅した九〇人の賛同者を集めた「ベトナム問題に関して日本政府に要望する」と題した北爆即時停止をアメリカに申し入れよと要求する声明文が佐藤首相に手渡された。

(中略)

ここでも明らかなように、この声明は解放戦線を北ヴェトナムから名目的にも実質的にも完全に独立した別個の組織と認識している。だからこそ、解放戦線の活動を押さえこむために北ヴェトナムを爆撃することは、全く筋違いで理不尽かつ野蛮な行為であるとの結論が導き出されている。またそこから南ヴェトナムでの戦争は内戦であり、その解決のためには「当事者」である解放戦線と交渉せよとの結論が生まれる。進歩的文化人のみならず、多くの善意のノンポリ的知識人・言論人にまで拡大された錯誤は、すべてここが出発点であった。

と、その「錯誤の原点」がはっきりしました。

サイゴン政権側の暴虐は、日本をはじめ西側の報道に頻繁に現れたが、解放戦線側の「恐怖の支配」が報道されることは滅多になかった。記者が農民に取材しても、報復を恐れる彼等から本音は聞けない。サイゴン政権側かその種力発表をしても、腐敗と民衆弾圧で悪名高い連中の言うことなど、頭から信用されないのが落ちだった。かくして、サイゴン政権側の悪行のみが喧伝され、それに反比例して解放戦線は 100%美化されていき、ヴェトナム戦争があたかも天使と悪魔の戦いのように描かれていったのは、図式的な報道を好む日本のマスコミと、同じく図式的な単純思考にとらわれた進歩的文化人らにとって自然の勢いだった。

このような日本のマスコミの姿勢は過去だけではありません。

2018年7月29日テレビ東京で放映された「池上彰の現代史を歩く【第6回 ベトナム戦争 小国はなぜ大国アメリカに勝った?】」の内容は、いまだに上記の図式のまま、「錯誤」に囚われたまま、ベトナム戦争を説明したものに思えます。南ヴェトナム解放民族戦線を民族解放戦線と表記し、「民族解放」を視聴者に意図的に意識付ける過去と同様の手法が用いられ、番組中「社会主義」の言葉は用いていますが、「共産党」「共産主義」「中国」は一切出てきません。

第15章では「従軍ジャーナリストの玉石」と題し、岡村昭彦、松岡洋子、本多勝一、開高健について記され、第16章「べ平連の自家撞着」、第17章「ヴェトナム反戦の日米共振」、第18章「パリ和平会議の裏切り」、第19章「ヴェトナム解放神話の崩壊」、第20章「ヴェトナム難民を嗤った人々」、第21章「中越戦争勃発に惑乱する文化人」と続きます。

第19章で、1975年4月30日以降は、

人民裁判や公開処刑も始まった。初めは刑事犯が対象だったが、間もなく旧政権下の「反人民的行動」まで処罰の対象になった。通常の訴訟手続きは行われず、当局が動員した民衆のなかから有罪の声が上がれば処刑するというやりかたである(古森義久『ベトナム報道1300日』)。

と引用されていますが、池上彰氏の番組では、ご丁寧にも南ベトナム側の人間であったという2人にインタビューの形で何事もなかったと語らせています。更に、ベトナム難民、ボートピープルに関しては「社会主義を嫌い、反発した人が逃げ出した」とされ、「アメリカが戦争に負けたのは、ベトナムの民族独立性の想いを理解できなかったから」と結論付けて終わっています。

 

 

スーパル・マドゥライ 武田尋善著 Ambooks アムブックス

スーパル・マドゥライ

武田尋善著
Ambooks アムブックス
2017年5月20日初刷

著者の巻頭の言葉に、

マドゥライ!タミルナードゥ州の州都チェンナイから約 500Km 離れた、タミルのエキスがコッテコテに詰まった、南インドの中の南インド!! 1997年、初めてインドに行った時、ここにあるミーナークシ女神のお寺に行くのが一つの目的だった。それからも何度も行ったマドゥライ。目をとじれば出会ったいろんな人たちの顔を思い出して一人にやにや笑っちゃう。インドに行くたびに書く日記から、マドゥライで描いた絵や写真を集めました。愛してる!!!マドゥライ!!!

と記されているように、著者手書きの絵や文章、写真が満載です。

著者が初めてインドに、そしてマドゥライ Madurai へ行った 1997年より遡ること 10年、私がマドゥライを訪ねたのは 1987年でした。奈良市の「vanam ヴァナム」さんで、この本を手に取り、すぐに買い求めました。遺跡を巡ることが目的で、ネパールとインドを駆け巡りましたが、当時はインド料理にあまり関心が無かったのが今では悔やまれます。

私が撮った 33年前のミーナークシ寺院 Meenakshi Sundareswarar Temple のカラー写真は色褪せてしまっていますが、本書では色鮮やかな寺院の写真を見ることが出来ます。

https://www.twitter.com/takedawala
https://www.hiroyoshi-takeda.com/
https://masaalaawaalaa.wixsite.com/masalawala

ミールス ダルバート ライス&カリー 南インド、ネパール、スリランカ 3つの地域の美味しいカレー

ミールス ダルバート ライス&カリー
南インド、ネパール、スリランカ 3つの地域の美味しいカレー

小此木大、本田遼、濱田祐介 著
LLC インセクツ 発行
2020年7月10日 初版第1刷発行

京都のインド食堂「タルカ」の小此木大さん、大阪のネパール料理店「ダルバート食堂」の本田遼さん、神戸のスリランカ料理店「カラピンチャ」の濱田祐介さんの共著の1冊が発行されました。はじめにで濱田祐介さんが記されています。

3人が愛してやまない、南インド、ネパール、スリランカの料理をご紹介します。その中で、最初に3つお伝えしたいことがあります。それは「地域による違い」「組み合わせの楽しさ」「料理の自由さ」です。
(中略)“主食は米”、“野菜を多用”、“スパイスで香り豊かに仕上げる”という共通点を持ち見た目は似ているものの、3地域には気候、風土、民族の特性、宗教、歴史があり、そこで育まれた食文化は似て非なるものです。

さらに

3地域の料理を知ると同時に、各地域の食文化へのガイダンスとなれば幸いです。

と続けておられます。カラピンチャさんのブログで紹介されるスリランカの日々も、食事を通して、文化、宗教についても触れておられ、濱田さんらしい巻頭の言葉です。

阪急神戸線王子公園駅近くのお店で頂ける美味しい料理は
→「カラピンチャ Karapincha(神戸市)」

カラピンチャ Karapincha

神戸市灘区王寺町1-2-13
http://karapincha.jp/blog/
https://twitter.com/karapinchajp
https://ja-jp.facebook.com/karapincha.jp/

大阪メトロ谷町線谷町四丁目駅からも近い、お店で頂ける美味しい料理の数々は
→「ダルバート食堂(大阪市中央区)」

ダルバート食堂

大阪市中央区内久宝寺町3-3-16
http://dalbhat-shokudo.com/
https://twitter.com/dalbhat_nepal
https://www.instagram.com/dalbhat_shokudo/

 

 

 

 

 

ダルバートとネパール料理 - ネパールカレーのテクニックとレシピ、食文化 - 本田遼 著 柴田書店

ダルバートとネパール料理
- ネパールカレーのテクニックとレシピ、食文化

本田遼 著
柴田書店
2020年6月30日初版発行

ダルバートに関する本を出したいことや、ダルバート食堂、スパイス堂に続く出店の構想を語っておられた「遼さん」が、着々とその夢を実現されています。まず前者の「ダルバートとネパール料理 - ネパールカレーのテクニックとレシピ、食文化」が 6月24日に発売開始となり、後者は東京、豪徳寺に「OLD NEPAL」の開店準備が進んでいる様です。店舗で先行販売とのことで、ダルバート食堂へ伺い購入しました。

本書の「はじめに」で記されている、

ネパール料理はインド料理やスパイスカレーにくらべると使うスパイスの量がかなり少なく、ほとんどの料理はターメリック、クミン、チリ、フェネグリークの 4種のスパイスのうち、いくつかを組み合わせてつくるというシンプルな味付けです。素材の味を引き立てて生かすところは和食と通じるものがあり、そのやさしい味わいは日本人にも親しみやすいように思います。

は、最近ダルバートを何度か自分で作ってみた際に同じ様に感じました。上手くネパール料理を表現されています。

ダルバート食堂

大阪市中央区内久宝寺町3-3-16
http://dalbhat-shokudo.com/
https://twitter.com/dalbhat_nepal
https://www.instagram.com/dalbhat_shokudo/

スパイス堂

大阪市中央区谷町6丁目13-6
https://twitter.com/osaka_spice_do
https://www.instagram.com/spice_do/
https://www.facebook.com/spicedou/

OLD NEPAL TOKYO

東京都世田谷区豪徳寺 1丁目 42-11
https://www.instagram.com/oldnepal_tokyo/?hl=ja

 

 

 

 

 

 

ダルバートから考えるネパールの風土 森本泉著 モンスーンアジアのフードと風土 横山智 荒木一視 松本淳 編集 明石書店

ダルバートから考えるネパールの風土
森本泉著

モンスーンアジアのフードと風土
横山智 / 荒木一視 / 松本淳 編集

明石書店 2012年9月10日 初版第1刷発行

休日は外出を控え、本を読みましょう。
ダルバートに関する日本語で書かれた総説です。

ネパールの町中の大衆食堂に入って「カナ khana (食事)」を頼むと、ダルバート dal bhat が出てくる。このような食堂にはメニューが無い。ダルバートとは文字通り訳せば豆汁(ダル)ご飯(バート)である。副食としてジャガイモや野菜を油で炒めて塩と香辛料で味付けしたタルカリ tarkari(おかず)や、酸味や辛味の効いたアチャール acar(チャツネ)が添えられ、これらが一つのプレートに盛りつけられる。ダルバートを頼むと「マス masu(肉)を食べるか」と尋ねられ、各店で提供可能な肉(山羊や鶏、水牛等)の種類が提示される。その中から好みの肉を選ぶと、肉のおかずがダルバートに加わる。多様な自然環境が広がるネパールで広く親しまれている食事が、このダルバートである。

という『1. はじめに』の文章から始まり、

「肉を食べるか」という問いは、2008年までヒンドゥー王国を謳ってきたネパールでは、個人の好みや健康への配慮というより、文化的規範を問うことを意味する。

と続きます。『2. ダルバート』ではダルバートの実際を紹介し、『3. ダルバートからみた地域差』では、ネパールは南部を除いては平野が少なく土地生産性が低く、かつ、都市部を除く地域での食生活は食材の流通環境に左右されると指摘しています。また購買力の問題もあり、人々は集落周辺の農耕地や、森林、川に、生活の糧を求め、自然環境に由来する季節性や地域性が維持されてきたと考察しています。『4. 食文化をめぐる社会的影響』では、「肉食に関する禁忌・制限」として、20世紀後半までヒンドゥー的ナショナリズムが進められていたことを紹介し

「肉を食べるか」と問うことは、ヒンドゥ―であるのか、カースト的階位が上なのか、あるいは高位カーストでもヒンドゥー的な慣習にどの程度準拠しているのか、個人の文化的規範を問うことに繋がるのである。

と、記し、さらに

1996年からマオイスト(現ネパール共産党統一毛沢東主義派)が政府に対して武装闘争を展開する過程で、世俗国家の実現を目的の一つに掲げて宗教を否定し、ヒンドゥー教が神とする牛の肉を兵士が食べていたことが話題となった。

とつなげています。『5. おわりにかえて』では

ネパールのカナ(食事)として親しまれるようになったダルバートは、今度は外国のネパール人コミュニティを通してネパールのカナとしてグローバル化している。しかしながら、私たちに本をはじめ南アジア以外の地域で接するネパール料理は、多くの場合はインド料理の雰囲気をまとうエスニック・フードとしてのネパール料理である。

と2011年当時の、日本でのダルバート、ネパール料理の状況が記されています。それから約10年、新大久保や名古屋、福岡でのネパール人コミニュティが膨らみ、ダルバートが彼らの中で普遍化するとは、著者も予想していなかったのかもしれません。

参考までに

→「現代ネパールの政治と社会 民主化とマオイストの影響の拡大 南真木人、石井溥 編集 明石書店」

→「ネパールにおける豚肉事情」

→「大阪、兵庫、京都、奈良で食べるダルバート Dal bhat」

写真は Kathmandu 郊外の市場のじゃが芋です。

裏切られたベトナム革命 チュン・ニュー・タンの証言 友田錫著 中公文庫

裏切られたベトナム革命
チュン・ニュー・タンの証言

友田錫著
中公文庫
昭和61年11月10日初版

南ベトナム民族解放戦線の創立メンバーの一人で、1969年に樹立された南ベトナム臨時革命政府の司法相であったチュン・ニュー・タン氏が、ボートピープルとしてインドネシアに脱出し、1980年3月にフランスに辿り着きました。1980年8月に著者が同氏に延べ30時間にわたりインタビューし、中央公論 1981年2月号に掲載しました。それを書籍化したものを、さらに文庫本にしたものです。

著者は1967年から1973年まで毎年ベトナムを訪れました。「はじめに」の中で

当時、われわれ西側のジャーナリストは、いつも一つのもどかしさを感じていた。それは《あちら側》、つまりハノイや解放戦線の側からするベトナム戦争が、固い規律と完璧に近い秘密のベールに閉ざされていたためである。この戦争を月にたとえれば、西側のジャーナリストが見、かつ知ることができたのは、あくまでアメリカとサイゴン政府側から照し出された《月の表側》でしかなかった。北と解放戦線からする戦争は、地球にその姿を見せることのない《月の裏側》であった。

と記し、《月の裏側》の真実を、この人から何としてでも聞いてみたいと思ったと綴っています。

1960年12月20日の南ベトナム民族解放戦線の結成大会に際し、ジエム政権によって軟禁されていたグエン・フー・トの解放作戦を行ったが間に合わず、正式に議長として据えられたのは1961年9月になったという、それまで知られていなかった事実が明らかになりました。結成大会で選出された暫定執行委員会の実質的な指導者は、1969年南ベトナム臨時革命政府が出来た時に首相となったフィン・タン・ファットであったことも証言されています。

著者の最も知りたかった北と解放戦線の関係については

ベトナム労働党(共産党)からは、南の解放戦線に二本のひもがのびている。一本は解放戦線の内側に入り込み、解放戦線の中核となっている人民革命党につながっている。もう一本は、カンボジア国境のミモトにある COSVN にのびるひもだ。COSVN は、ハノイの党政治局に直属する機関で、政治局の《南部探題》である。この COSVN が、解放戦線の《最高顧問》という形で横から解放戦線に《指導》を行っていた。

と、ハノイが内と外の両面から影響を及ぼす仕組みをしっかりと作り上げていたことが聞き出されています。

1963年11月のゴ・ジン・ジエムに対するクーデターは、ズオン・バン・ミン将軍らがアメリカの CIA の支持を得て決行したとされていましたが、解放戦線の秘密工作員であったファン・ゴク・タオ大佐がジェムに反対する軍人たちを結集させる重要な役割を果たしており、更に1965年の反グエン・カーンのクーデターでも中心的役割を果たしたことが初めて明らかにされました。

サイゴンで国営砂糖会社の社長をしながら地下活動を行っていたタン氏は、1967年秘密連絡員が解放戦線とタン氏の関係を自白してしまい、逮捕、拷問が繰り返される取り調べを受けることになります。その後、アメリカ人捕虜との交換で釈放、ジャングルの前線司令部へ、そして COSVN (Central Office for South Vietnam、南部中央局)へ移動します。その理由は、平和勢力連盟の結成に必要とされたからでした。テト攻勢の目的は、サイゴンに暫定政府を打ち立てることで、平和勢力連盟がその母体となるはずで、共産主義のレッテルを貼られない様に、誰が見ても共産主義者とは言えない人たちに白羽の矢がたったのでした。

1969年6月6日人民代表大会で臨時革命政府が樹立されましたが、その樹立の経緯や、組織の閣僚の面々、カンボジア国境のジャングルの中で実際にどのような活動をしていたのという点も、秘密のベールに包まれていました。臨時革命政府は、1970年のロン・ノル・クーデターによるカンボジアのシアヌークの失脚により、カンボジア領のクラチエに移動し、1972年3月30日の復活祭攻勢をきっかけに再び南ベトナム領に戻ることになります。

1969年9月3日のホー・チ・ミンの死、1972年のニクソン大統領とキッシンジャーの訪中、この二つの出来事が、労働党の指導者たちの中ソに対するバランスをソ連寄りに傾けます。1973年1月27日パリで、アメリカ、サイゴン、北ベトナム、臨時革命政府の4者で和平交渉が行われたことになっていますが、その本当の交渉はキッシンジャーと北ベトナム代表団顧問のレ・ドク・トとの秘密会談で終始進められました。1974年8月ウォーターゲート事件でニクソン大統領が辞任すると、アメリカが再び武力でベトナムに戻ることは不可能と確信したハノイの政治局は「政治的解決」から「軍事的解決」に重心を移すに至ります。サイゴン攻略のためのホー・チ・ミン作戦では、北ベトナムの正規軍のほとんどすべてが南に投入されます。

ハノイが三者連合の樹立という《政治的解決》を追及している限りにおいては、南の解放戦線、あるいは臨時革命政府は必要な存在だった。しかし《軍事的解決》で「二十年の時間を短縮する」ということは、臨時革命政府の役割そのものが不要になった、ということを意味する。

タン氏をはじめ解放戦線の人々は、ハノイの基本戦略の転換に伴いこの点に気が付いていなかったのかという問いに、

私は、完全勝利が達成されたあともしばらくは現状が維持されるものと考えていた。つまり、北は社会主義の政府をもち、南はこれとは別の、解放戦線、臨時革命政府の政権を持つ、という形だ。

と答えている通り、すでに蚊帳の外に置かれていました。

臨時革命政府の閣僚や、解放戦線、平和勢力連盟の指導部は、1975年4月30日のサイゴン陥落後も、ハノイに留め置かれ、5月13日にようやくサイゴン入りします。5月15日の勝利祝賀会での軍隊の行進は、北ベトナム軍の黄色赤旗ばかりで、解放戦線の部隊はすでに北ベトナム軍と統合したとバン・ティエン・ズン総参謀長から知らされます。この時点でようやく、北が南を牛耳ろうとしているのではないかと気が付きます。陥落一か月後にスタートした旧サイゴン政権の職員や軍の将校に対する再教育キャンプについて、フィン・タン・ファト首相に抗議をし、疎まれる結果となったことも記されています。北の労働党の意向に沿って、1975年11月15日からサイゴンで、南北双方の代表団の間で南北の早期統一と社会主義化のための本会議が開かれますが、事前に筋書きがすっかりできており、南の代表団に入っていた臨時革命政府の官僚たちには政治局の決定に「規律正しく」従うよう命令を受けていました。

自分たちの運命を悟り、11月22日ナイトクラブ「レックス」の二階で、臨時革命政府、解放戦線、平和勢力連盟の主だった指導者たち約30人で「最後の晩餐会」を開きます。

さびしい、陰気な晩餐会だった。どの表情も悲しげで、それでいてだれ一人、権力を握っている党の指導者たちにたてつくようなことを口にするものはなかった。(中略)みな、胸がいっぱいだった。これが、お互い、一堂に顔を合わせる最後の夜なのだ。だれも、何も考えず、何も目に入らなかった。ただ、ぼんやりと演奏を聞き、歌に耳を傾けていた。いや、そうすることで、口を開かずにすませようとしていた、というべきかもしれない。口を開いたとしても、言うべき何があっただろう?(中略)食事が終わった、みなは押しだまったまま、散っていった。

1976年4月、南北を合わせた新国会の選挙が行われます。中央政府に次いで、大衆組織の祖国戦線が結成され、解放戦線は吸収されてしまいます。「議長のグエン・フー・トも首相のフィン・タン・ファトも、臨時革命政府や解放戦線が消えていくのをただ見ていただけだった。彼らは南北が統一されたあと何もしなかった。」と評しています。

統一後の、一般の人々の生活、義務付けられた政治集会への出席、労働奉仕、地域の当局者の腐敗、新経済区送り、再教育キャンプ、強制労働キャンプなどのおぞましい実態を証言しています。またサイゴン政権時代よりもひどい、北の幹部たちの腐敗、汚職についても苦言を呈します。

最終章の「中ソの谷間で」では、解放後、1978年頃から中国との関係の悪化、ソ連への傾斜、カンボジアを巡る綱引きなどが証言されています。1976年の第4回の共産党大会における、共産党内での派閥争いなども歴史を振り返ると興味深いものです。

党は指導し、政府は治め、人民は主人。これが、共産主義体制の《三位一体》だ。つまり、党も政府も人民に仕える存在ということになっている。だが、それは耳障りのよい理論でしかない。ベトナムの現実は、党が指導し、党が治め、党が主人なのだから

とタン氏は述べます。

日本記者クラブの web site で、ベトナム断想Ⅲ 「月の裏側」を見た―亡命した解放戦線幹部とパリで会う―(友田 錫)2014年4月 と題した記事を読むことができます。

写真は、哀しい最後の晩餐が行われたナイトクラブ「レックス」、現在のレックスホテルです。

ベトナム報道 日野啓三著 講談社文芸文庫

ベトナム報道
日野啓三著

講談社文芸文庫
2012年1月10日第1刷発行

現代ジャーナリズム出版会『ベトナム報道 特派員の証言』(昭和41年1月刊)を文庫本化したものです。1975年(昭和50年)「あの夕陽」で第72回芥川賞を受賞した著者が、1964年12月に読売新聞社初代サイゴン常駐特派員として派遣され、1965年6月に帰国するまでの6ケ月間の記録です。

他社も含め、日本のジャーナリズムが、初めて本格的なベトナム報道体制をとり始めた時期です。情報源は毎日午後5時から行われる MACV(南ベトナム援助軍司令部)で行われる政情と戦況のブリーフィングと朝のサイゴン・デイリー・ニューズ紙位でしかなく、しかもそのブリーフィングさえも

率直にいって最初の日、私はそのスポークスマンたちの言っていることがまったくのところ二割もわからなかった。(中略)米国人記者たちとのやりとりを、完全理解することはできない。

と、正直に吐露しています。その後、情報源を増やす中で、「解放戦線側の右派、つまり非共産系の知識人たち」と連絡のある一人の老知識人の話として、

この筋の人が最初メコンデルタの穀倉地帯をもつ南ベトナムは食糧の足らない北とちがって、急激に共産主義政策とくに早急な農業集団化政策をとる必要のないこと、経済はゆるい社会主義的計画経済、政治は幅広い人民戦線的民主主義でやってゆけること、北との統一は大体二十年後を目標にしていることなど、意外に柔軟な線を自信をもって語っていた

ことを取り上げていますが、その後の史実からすれば「夢物語」であったことに、彼らも著者も少し気が付き始めていたのかも知れません。しかし、

共産主義から悪い面、たとえば画一主義、官僚主義を取り去り、よい面、たとえば反植民地主義、計画経済だけをのばそうという理想主義。それは単にベトナムの問題だけではなく二十世紀の歴史の最も重要で困難な問題を試みるという意味で、意義のある試みに違いない。だがその理想主義が、アメリカのむき出しの力の政策、力の外交、力の戦略の前に、崩れようとしている。

と、北ベトナムやソ連、中国の、共産主義勢力の本当の怖さを指摘する前に、アメリカのせいで「北ベトナムの共産政権の発言力が強まり、解放戦線内部でも人民革命党の勢力が強まる」とその老知識人の言葉を引用しています。そのうえで、

解放戦線は民族主義者か共産主義者かという形式論理が重大視され、共産主義者という概念を既成の観念内容でもって、単純に割り切って恐怖する。

また

ベトナム戦争は、根本的に革命であり内戦とみるべきであろう。

と、著者自身の考えを記しています。

私たちが左側から眺めたのでも、右寄りに眺めたものでもない。私たちは新聞記者だったから、まっすぐに見た。

とも、理由付けしています。

しかしこれらは、1964年~1965年という時期、および駐在の期間の短さに因るとしても、歴史を振り返ると、まさしく左側の手のこんだ謀略宣伝工作に瞞着されていたと評されても仕方ない言葉です。

写真は独立宮殿に飾られている、The two Kiều sisters と題する油絵です。

観光コースではないサイゴン(ホーチミン) 野島和男著 高文研

観光コースではないサイゴン(ホーチミン)
もっと深い旅をしよう Another Saigon

野島和夫著
高文研
2017年7月25日第一刷発行

ベトナム人の妻と共に40歳代からホーチミンで暮らす著者は、あとがきで以下のように記しています。

長く暮らすうちに、こちらの人からさまざまな話を聞きました。そのなかでわたしが興味を持ったのはサイゴン時代の話でした。「今は図書館だけど以前は刑務所で中庭にはギロチンがあったんだ」というような話を聞き、それを歴史書や古地図などで確認してから記事を書く。その作業を繰り返すうちにおぼろげながら昔のサイゴンが見えてきました。また、このことはわたしが誤解していたベトナム観を解き、こちらの人たちを理解するための一助ともなりました。薄皮が一枚づつはがれていくようにベトナム人の心情が共有できるようになりました。

『序章 なぜ「サイゴン」なのか』と『第一章 サイゴンの成立と近代文明化』で、ベトナムの歴史、サイゴンの歴史が記され、『第二章 サイゴンの表玄関 メーリン広場から』では、かつて大桟橋がありサイゴンの表玄関であったメ―リン広場から案内が始まり、『第三章 レ・ズアン通りとグエンフェ通り』へと進みます。いずれも史実が併せて記されており、単なる観光案内ではなく、サイゴンの歴史を知ることが出来るようになっています。『第四章 パスツール研究所と海軍病院』、『第五章 チョロン』と進みます。『第六章 統一会堂(旧大統領官邸)』では、再度ベトナム戦争に関する歴史がちりばめられています。

四月三十日正午、人民軍のT型戦車が官邸の門扉を破って突入した。この時の映像は、日本でも数多く紹介されている。しかし、初めて官邸に突入したのはこの戦車ではない。戦車が突入する前には撮影隊が入ってカメラを構えている。カメラの準備ができてから”スタート”の合図とともに戦車は入った。しかし、最初に入った戦車は中国製だったため政治的配慮からNGとなった。次にソ連製の戦車がすでに開いている正門の東側へ入ったところを撮影した。このときはテストや予備を含めて合計五回ほど戦車は突入したそうだ。

共産革命はずっと背後に隠され民族独立だけが前面に押し出された戦争も、結局は主たるところは共産革命であったことが明らかとなります。その背後にいた北ベトナム、中国、ソ連の三者の関係を、この文章が語っています。(下の写真は、戦争証跡博物館の展示)サイゴン政権の重鎮たち、ゴ・ジン・ジェムと弟のヌーの遺体のその後、マダム・ヌー、グエン・バン・チュー、グエン・カオ・キー、ズオン・バン・ミン達のその後の消息も記されています。興味深いのは、かねてからの北との密約により1975年4月8日に大統領官邸を南ベトナム空軍機で爆撃したグエン・タン・チュンがその後ベトナム航空で重用され、副社長まで上りつめた事です。まさに恩功労賞です。

『第七章 鉄道』、『第八章 ブンダウ』と続き、『第九章 サイゴンの終焉』では自身の妻の実家の話と、その兄が終戦後にボートピープルとなった経緯が記されています。

ベトナム報道1300日 ある社会の終焉 古森義久著 講談社文庫

ベトナム報道1300日
ある社会の終焉

古森義久著
講談社文庫
昭和60年4月15日第1刷発行

著者が文庫版あとがきにて

ベトナム戦争中、日本ではわがマスコミをはじめ多くの向きが、この戦争の実態について重大な誤認をおかしていたことがいまではすでに明白となっている。たとえば闘争の主役は一貫して北ベトナム軍であったのに、「この戦争は南独自の解放勢力による闘争で、北は直接、軍隊を送っていない」と断じたことや、北ベトナムにははじめから南ベトナム政府を軍事粉砕する方針しかなかったのに、「戦争の交渉解決を」と叫びつづけたことなど、その一端である。

と述べている様に、歴史を振り返った時にベトナム戦争は何であったかを、時世に流されて報道した他のマスコミとは一線を画し、ジャーナリストとして的確に事実を把握、伝えようとした記録です。

これまでは国際問題についていかに間違った、ゆがんだ評価を声高に語りつづけても、その間違いを後から指摘されることはまずなかった。いかに公式の場や活字によって、結果としての大間違いのコメントをしても、その非を責められることはなく、ミスをおかした人物が、そのメディアが、何の修正もせずに、また新たな問題について、これまた結果として間違いの論評を堂々とする、というケースが少なくなかったのである。

とも記し、過去および当時のメディアを厳しい目で評している点は、事実を正しく伝えないばかりか、特定のイディオロギーに基づいた誤った情報を発信する、過去および現在のメディアをも評している様に思えます。

後に72年春季大攻勢と呼ばれた、北ベトナム「南」解放戦線軍による全国規模の激しい軍事攻勢が行われた直後の1972年4月にサイゴン特派員として赴任、前線での取材なども行います。北爆を実施する米航空母艦の取材した際、パロットとの会見での様子を描写するとともに、次のようなパイロットの言葉を記しています。

アメリカ国民はベトナムの実態について完全に誤解している。それは主にマスコミの責任だ。反戦運動で四十人の学生が大学の建物を占拠しても大きく報道されるが、五千人の南ベトナム人が北軍の砲撃を受け殺傷されてもほとんど無視される

報道のあり方が、如何に偏り、かつ北を利するものであったかについて

報道陣はアメリカ流の「言論の自由」を常に錦の御旗として、軍の報道規制もなんのその、ただひたすら真実を追う。群が隠そうとする機密でも「公共の知る権利」のためにあくなき追及を繰り返し、あばいてしまう。それが正しい、あるべき報道機関の態度であり存在意義だ、と賞賛される。しかし向こう側にいる戦争当事者、つまり敵にとってこんなありがたい、また貴重な情報源は無い。(中略)そして実際に、南ベトナムの密林にひそむ北の主力軍が、ハノイを経由し伝わってくるサイゴン発の西側通信社などの報道をいかに頼りにしていたかは、後に北ベトナム軍の完全勝利後、参謀総長のバン・チエン・ズン将軍が長大な回顧論文の中で、はからずも明らかにしてくれた。

と、はっきりと理解するまでには、氏自身も4年を要したとのことです。その後、和平協定が発効して60日目の1973年3月29日、最後の米軍部隊が南ベトナムを去る日には、タンソンニュット基地で儀式を見守ります。

南ベトナム社会の平均的な人たちとの接触を重ねるうちに、市民の「チュー政権(南ベトナム政府)も嫌だが、北ベトナムや解放戦線はもっといやだ」という「反チューかつ反共」の反応に気付かされます。政治家や学者の話を聞き、

抗仏の民族独立闘争の初期には、右派から左派まで様々な民族主義勢力が合体し、ゆるやかながら抗仏連合戦線を結成していた。ところが史実として知られるように、ホー・チ・ミン主席の率いる共産党がその連合戦線の中で着実に他派を排除して民族自決の闘争を独占していった。マルクス・レーニン主義を信奉することなしに民族独立を達成しようとする各勢力は暗殺や欺瞞を」含むありとあらゆる手段で「民族主義陣営」から除去された。民族主義者であっても同時に共産主義者でなければ、「真の民族主義者」たりえないというベトナムの闘争独特の規範が形成されていったのである。

とまとめています。このことを踏まえ、

ベトナムの民族闘争は言うまでもなく民族独立と共産主義革命という二つの大目標を目ざしていた。(中略)しかし長い闘争の期間中、二つの大目標のうちの一つ、共産革命はずっと背後に隠され民族独立だけが前面に押し出された。現代社会では植民地主義、他国支配を悪とすることに反論はない。従ってその「悪」を排除する民族解放闘争の正義は誰もがうなずく「自明の理」である。しかし共産主義革命も同様に自明の正義かどうか、これにはまだ全世界のコンセンサスはない。だから自明の正義である民族解放だけを前面に掲げ、議論の余地のある共産主義革命を後方に引っ込めるのは闘争への国内、国外からの幅広い支援を得るためには非常に賢明な戦略であった。

とベトナム戦争の本質を解説します。

1974年1月、革命政府支配区(解放区)への10日間の潜入取材も果たします。北の正規軍の関与について、

解放政府地区を防御する人民解放軍主力の実態は、やはり北ベトナムから南下してきた正規軍師団であった。(中略)アメリカ、サイゴン政府軍は一貫して南ベトナムの革命闘争は北ベトナムが直接総力を投入して実施しており、革命軍の主力は北の正規軍だと、との主張を公にしていた。これに対し北ベトナム、南革命政府側は南での闘争はあくまで南ベトナム独自の勢力により、軍隊も南の人民解放軍だという建前を崩さず、北の正規軍が南に下っていることは公式には絶対に認めようとしなかった。

と結論づけ、通訳としてついてくれた人物から、

南の人民解放軍の正規軍というのは北ベトナムからの正規軍師団であり、その構成メンバーはほぼ全員、北出身の兵士である。たまには南の人間だけで編成した正規軍部隊もあるが数は極く少ない

という言葉を引き出しています。

前出のベトナム人民軍(北ベトナム)参謀総長バン・チエン・ズン大将の回顧録も引用しています。

ズン将軍の戦記は、南での闘争が終始一貫北ベトナムで編成装備され、ハノイからの命令と補給で動く人民軍を主力として推進されたことや、そもそもベトナム民族闘争はマルクス・レーニン主義を信奉するベトナム労働党がすべて指導し実施した経緯を、大胆かつ率直に述べている。また闘争の大目標は民族独立のみならず共産主義革命であり、マルクス・レーニン主義路線を貫いた点にこそ勝利の原因がった、とも断言している。南ベトナムの開放は最初から最後まで武力革命による以外はありえないと決定されていたことも、この戦記は明快に記している。

1975年3月5日にはサイゴン政権のグエン・バン・チュー大統領が、記者団との会見に応じます。北ベトナム軍の攻勢は増し、3月26日フエ(ユエ)が制圧され、3月27日にはクーデター計画が摘発され、3月29日ダナンも陥落、次いで4月1日ニャチャン陥落、4月8日南ベトナム空軍所属の F5 戦闘爆撃機による大統領官邸爆撃、4月9日スアンロクへの大攻撃、4月20日スアンロク陥落、4月21日チュー大統領辞任、チャン・バン・フオン大統領就任と続きます。この間の、何とかして国外に脱出しようとするベトナム人の様子や、すさまじいインフレなども記されています。チャン・バン・フオン大統領がズオン・バン・ミン将軍に政権を引き渡すべく画策する中、4月25日チュー前大統領が国外逃亡します。4月27日サイゴン市内への砲撃が始まります。4月28日ズオン・バン・ミン大統領就任、革命側に呼びかけた即時停戦の交渉を拒否される。4月29日タンソンニュット空港への爆撃、アメリカ政府機関の全面撤退。ミン大統領、再度特使を革命側に派遣し停戦交渉を試みるも拒否される。4月30日正午過ぎ、独立宮殿の正面ゲートを北軍の戦車が打ち破り、革命側が作成した無条件降伏の声明を読み上げさせるために、ミン大統領を放送局に連行。ズン将軍ら北軍首脳はサイゴン北方の前線司令部のラジオでこの降伏声明に耳を傾けます。その直後の、国防省、独立宮殿の中の様子などが描写されています。独立宮殿の正面では、有名な写真、一番乗り戦車の突入場面を再構成し何度も撮影、宮殿内で大階段を突撃していく兵士のシーンの撮影が繰り返し行われていたそうです。(下の写真は「ホーチミン作戦博物館」に展示されている、突入場面)

5月15日の勝利祝賀式典では、「北」が永年、全世界に向かって叫んだ主張を勝利後わずか二週間であっさりと捨て去ります。北ベトナムのナンバー4である、ファム・フン北ベトナム労働党中央員会政治局員が、「南ベトナム」の国家元首に当たるグエン・フー・ト議長や、首相のフィン・タン・ファット氏よりも上位の、革命政権の最高責任者として登場しました。

アメリカは一貫して、南の闘争の中枢は労働党組織だと指摘してきた。「労働党南ベトナム中央司令部」という組織があり、その最高責任者がファム・フン氏だとも断言してきた。(中略)ハノイは無論、こういうアメリカの主張をプロパガンダとして否定し続けた。日本でも多くの人がこのハノイの言い分を支持した。(中略)ところが何のことはない。アメリカが指摘していたとおりの事実をハノイ首脳みずからが公然と示したのである。

その後、日が経つにつれ、人民裁判、軍事裁判、公開銃殺などが実施されるようになり、旧政権の将兵、警官、行政職員にも、明らかな報復としての処刑が頻繁に行われる様になります。旧南ベトナム軍兵士や旧政府の中堅以上の職員の「再教育」も始まり、30万人とも40万人ともいわれる人がトラックで連れ去られた後、何時までも戻ってくることはありませんでした。

南ベトナムを支配することになったはずの臨時革命政府は、不思議なことにいつまでたっても登場してきません。労働党(北ベトナム共産党)がすべてを掌握したままでした。市民への徹底した監視、統制、重圧は市民を悲しませます。また新たな差別も人々を嘆かします。

革命当局は当然のことながら、闘争に直接参加した人間を新社会の支柱とみなし、全面的な特権を与え優遇した。その家族も同様である。(中略)これに対しサイゴン市民の側は、旧政府に特に関係していなくても傀儡政権の支配下に住んでいたとの理由だけで、すべて「劣等ベトナム人」とか「落伍者」と判定されていた。

報道の自由も大きく制限、検閲が厳しくなり、ついに著者への国外退去命令がなされ9月6日サイゴンを離れることになりました。

古森氏は最近、池上彰氏のベトナム戦争に関する記事に関し、「池上彰氏のベトナム戦争論の欠陥」と題し、重要な指摘をされ苦言を呈しておられます。