南ヴェトナム戦争従軍記 [全] 岡村昭彦著 ちくま文庫

南ヴェトナム戦争従軍記 [全]
岡村昭彦著

ちくま文庫
1990年2月27日第 1 刷発行

「南ヴェトナム戦争従軍記」(1965年1月、岩波新書)、「続南ヴェトナム戦争従軍記」(1966年9月、岩波新書)として、岩波書店より刊行され、その後「岡村昭彦集1」(1968年3月、筑摩書房)に収録されたものを、文庫本にされたものです。

「南ヴェトナム戦争従軍記」では、南ヴェトナム政府軍に幾度となく従軍し、その詳細を記し、1963年11月にクーデターでゴー・ディン・ジエム大統領と弟のヌーが失脚、処刑された際の街中やジャロン宮殿の様子も描写し、当時28もあり約200万人とされた山岳民族からなる部隊にも従軍し、ホー・チ・ミン・ルートについて垣間見ようとしましたが、勿論叶うことはありませんでした。

従軍の際、南ヴェトナム政府軍の民衆に対する残虐行為をしばしば描いているが、解放戦線側の戦闘による民衆の犠牲やテロの実態には全く触れていない。

と『「悪魔祓い」の戦後史』(稲垣武 著)で指摘されています。

「続南ヴェトナム戦争従軍記」では、著者が自ら、

一つの戦争をその両側から取材するということは、一九六三年夏、私がはじめてヴェトナムの戦場の土をふんで以来の切実な念願であった。もちろん、それは極めて困難で、しかもこのうえなく危険な試みである。特に南ヴェトナム戦争場合のように、敵味方が複雑に入りみだれ、からみあいつつ激動する状況下にあっては、なおさらのことだ。しかし、そうであればあるだけ、両側から取材することは一層重要な課題となってくる。

と、巻頭に記したように、南ヴェトナム解放民族戦線の支配する解放区に潜り込むことに執心し、その記録を残しています。しかしながら、解放区の村に滞在しただけで、解放戦線に従軍できたわけではありません。「捕虜収容所日記」と題した項目では、再度解放区に潜入はしたものの、従軍出来ないどころか、屋根と柱だけの小屋に収容され監視下での生活を送ることになります。ただ、43日目に、サイゴン・ジアディン地区責任者であり、民主党書記長の、フエン・タン・ファット副議長に会うことが実現し、彼との会話の詳細が記されています。南ヴェトナム政府軍はアメリカの傀儡であるとのプロパガンダを繰り返した解放民族戦線自体や、その代表的存在のフエン・タン・ファット自身も、歴史的に振り返ると北ヴェトナムやその背後にいた中国、ソ連のお飾り的存在に過ぎなかったことは皮肉ですが、当時はそのことを知ってか知らずか、著者に好感を持たせる発言を重ねています。

独立をかちとった場合、私たちは、どこの国とも軍事同盟を結ばない、非同盟・中立の政府をつくります。

独立後の南北統一については、

北はすでに違う社会体制をもっており、それに向かって進んでいます。社会体制の異なる国が一緒になるのは、それほど簡単なことではありません。

北ヴェトナム軍との関係については、

アメリカはさかんに、北ヴェトナム軍が我々と一緒に戦闘しているようにいっておりますが、そんな事実はありません。中国はわれわれのよき理解者であり、心からの支援を送ってくれています。しかし、物質的・人的支援は受けていません。

前出『「悪魔祓い」の戦後史』(稲垣武 著)でも

生粋の共産党員であったファトを「民族ブルジョワジーの代表」としているのは、解放戦線側の偽装を信じたためであろう。米軍や「南」政府軍の発表には常に懐疑の刃をふりかざしている岡村が、解放戦線の宣伝は一も二もなく信じるのは奇異だが、その根底には解放戦線へのシンパシーがあったからに違いない。

と評されています。

写真はクチ史跡の、地下トンネルの台所、

 

 

 

ベトナム戦記 開高健著 朝日新聞社

ベトナム戦記 
開高健 著

朝日新聞社
1990年10月20日 第1刷発行

読売新聞の特派員であった日野啓三氏が、本書の最後に解説「限りなく“事実”を求めて」と題して記された文章を引用すると、

 この本は一九六四年末から六五年初頭にかけて、開高健がサイゴン(現ホーチミン市)から「週刊朝日」に毎週送稿したルポルタージュを、帰国した開高自身が大急ぎでまとめて緊急出版したものである。
 フリーカメラマンの岡村昭彦が岩波新書の一冊として出した「南ヴェトナム戦争従軍記」とともに、ベトナム戦争の現場で日本人が書いた最初の記念すべき書物であり、日本国内でベトナム戦争への関心を一挙にかきたてた歴史的な書物でもある。

とのことです。ベトナム戦争のルポルタージュとして称賛される本書ですが、読み進めていくうちに、違和感を少し覚えます。ベトナム人の“七つの顔”の章では、自身が日本の小説家と自己紹介すると、多くの知識人が教えてくれたという艶話が記されていたり、他のルポルタージュでは必ず記されている、戦争の状況に関するアメリカ顧問団(1962年2月設置)などからの情報の収集に関する詳細な記載が乏しい事についてです。確かに、南ベトナム政府が弾圧してきた仏教徒の反政府デモなど、仏教徒側の話はよく聞き、多く記されています。しかし結論として、

『人民のために働いてくれる政府』を求めて現在の政府を否定する情熱は激しいけれど、解放戦線と妥協、握手、または平和共存については、みんな全的否定、または悲観的、かつ、逃避的な意見しか述べないのである。(中略)私にとっては不思議であった。何故かわからなかった。

と記し、仏教徒が北ベトナムにおける例を挙げ、共産主義は宗教活動を圧殺し去ることを開高氏に説くと、

私は北ベトナムについての事実を知らなすぎるのである。

と、ベトナム戦争の本質で、一番重要な点を曖昧にしています。1960年12月20日設立の『解放民族戦線』が、1959年5月13日の北ベトナム労働党の第15号決議によって樹立され、「人民改革党」と名乗り実態を隠ぺいしていた「北」党の南部中央局の直接指示を受けていた事実を、仏教徒は共産主義への鋭い警戒と疑いの中で既に気が付いていたのかも知れません。後になって開高氏はべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の設立時に中心的役割を果たしたにもかかわらず、その運動から距離を置くようになったのは、反米左派勢力に強く反発したからとされていますが、北ベトナムの事実を知ることとなったからでしょうか。

最後に、アメリカ軍の手配で、ベンキャット (ベンカト、Bến Cát、Lai Khê) 基地まで行きベトナム共和国陸軍(南ベトナム政府軍)に従軍し、サマック作戦に同行し九死に一生を得たことが記されています。ベンキャットの現在は、Vietnam War Travel – Discovering the hidden places from the Vietnam War の Lai Khe Base Campの記事

Along route QL13, also known as Thunder Road, there were a string of bases during the war. One of the most important ones was Lai Khe, which served as base camp for the 1st Infantry Division from 1965-1972 along with several other American units over different periods of time. The base camp was the headquarters for the 3rd Brigade with the division headquarters not far away in Di An. The other brigades were stationed at Quan Loi, Phuoc Vinh and Dau Tieng. It was a well chosen site, right on the highway, and together with its large runway and relative proximity to Saigon, supplies could be brought in fairly easily via both road and air. Another 70 kilometers up the road, a Special Forces Camp was located in Loc Ninh.

Being located so close to Saigon meant it was an important part of the city’s outer defenses as PAVN forces later in the war would push down QL13 during its attacks. At one point, it was one of the most active areas when it came to PAVN and VC activities. Being so close to the Iron Triangle, it also meant that many operations were launched from the base even as it was a constant target for enemy attacks.

と記され、現在の周囲の様子の映像も見ることが出来ます。サマック作戦とありましたので sa mạc (砂漠)作戦かと思いきや、読み直してみるとベンキャットから北方の地名の様です。開高健記念館の web site での、企画展「開高健とベトナム」の地図では、10キロ北方で13号線より西の様です。Lai Uyên の辺りのはずですが、Xa Mac などの地名で Google map 等で探してみても見当たりません。

ベトナム戦争当時のサイゴンでの開高健氏をよく知ると言われる仁平宏氏が、この「ベトナム戦記」について、ある web site で論評されています。

開高は、帰国直後の足で箱根に一週間籠り、猛烈な想像(妄想)力を発揮して殆ど徹夜作業で編集して緊急出版したものだ。編集記者もその一週間ぴったり開高に張り付いた。開高自身も「ベトナム戦記」は“真っ赤なニセモノかどうか分らなくて書き上げた”と自ら語っている

残念ながら、今となっては開高健氏の反論を聞くことが出来ません。

下の写真は、開高健氏も見たであろう、マジェスティックホテルサイゴンから見た夜明けです。

 

カシタス湖の戦い ASSAULT ON LAKE CASITAS

カシタス湖の戦い ASSAULT ON LAKE CASITAS
ブラッド・アラン・ルイス Brad Alan Lewis 著
榊原章浩 訳

東北大学出版会
2002年5月19日 第1刷発行

1984年ロサンゼルスオリンピックのボート競技に纏わる、ブラッド・アラン・ルイス Brad Alan Lewis の自伝です。

著者がシングルスカル競技のアメリカ代表決定の選考会のレースで2位となり、オリンピック出場権を逸した事から話が始まります。オリンピックへの道は、まだ残っている、2人で漕ぐダブルスカル、4人で漕ぐクォドプルの選考会で勝つしかありません。ナショナルチームの合宿にまず呼ばれ、そこでの出来次第で、監督であるハリー・パーカー Harry Parker によって、選考会に出場するクルーメンバーとして選ばれるという過程が待っていました。残念ながら、ハリーのブラッドに対する評価は低く、このままでは選考会にはナショナルチームのクルーとしては出場すらできない立場に追い込まれます。ブラッドは潔くナショナルチームとは決別し、ポール・エンクイスト Paul Enquist と組んで、ダブルスカルでの選考会を独自で目指します。ナショナルチームから外れれば、資金や試合に使うボートも自己負担、自己調達の必要が生じます。相棒に決めたポールともいくつかの軋轢は生じ、それらを乗り越えて、選考会で勝ちアメリカ代表となります。そして最後にはオリンピックでも金メダルを取りました。

カシタス湖でのオリンピックの決勝レースの展開の記述を読んだうえで、Youtube で当時の実況放送の映像「1984 Olympic Games Rowing – Men’s Double Sculls」 を見ました。文章から想像した以上にスタートで出遅れたにもかかわらず、最終盤で先行するベルギーを抜き去る力漕でした。実況のアナウンサーと解説者が、ブラッドのクルーの代表選考の過程を端的に説明し、ポールが漁師であることも紹介しています。

訳者の榊原章浩氏もボート競技に永年携わってこられた方の様です。訳者あとがきで記されていることを抜粋します。

本書はあらゆるスポーツに共通すであろう金メダリストの精神の集中について、金メダリスト本人にしか書けないレベルで読者に明らかにしています。
(中略)
ボートを一度でも漕いだものにとって、この物語は圧倒的であり、即座に感情移入されてのめり込んでしまう。
(中略)
本書に込められている人生の目的を「正確に行い成し遂げる」という普遍的なテーマは、ボートを知らない皆様にも十分に味わっていただけたのではないでしょうか。

 

本屋 ルヌガンガ Lunuganga (高松市)

「本屋 ルヌガンガ Lunuganga」さんは、スリランカに興味を持つ人であれば覗いてみたくなるネーミングです。高松に行った際に、伺いました。まず外観からして、本屋さんらしくない構えです。奥には、カフェスペースもあり、ゆっくりとした時間を過ごすことが出来ます。お店の方とお話しすると、やはり実際に Lunuganga を訪れた事があるそうで、「Geoffrey Bawa」と題する本も置かれていました。お店の web site には以下の様に記されています。

「ルヌガンガ」という少し変わった響きを持つ店名は、スリランカの建築家、ジェフリー・バワが50年の年月をかけて作り上げた庭園邸宅の名前から、恐れ多くも拝借しています。

ルヌガンガがバワにとって年月をかけ作り上げた理想郷であったように、私たちもこの店を時間をかけ理想郷と言えるような場に育てていきたい、という想いを込めています。

香川県産のデコポンのジェラートや、コーヒーも頂いて、ゆっくりと本選びをして、本を8冊ほどと、革製の店名が焼き印されたブックカバーを購入しました。

本屋 ルヌガンガ
Lunuganga

高松市亀井町 11-13-1

 https://www.lunuganga-books.com/
https://www.facebook.com/lunugangabooks/
https://www.instagram.com/lunuganga_books/?hl=ja
https://twitter.com/lunugangabooks

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第9回 藤井路夫 油絵展 @ 阪急うめだ本店 7階 美術画廊

2019年3月13日から19日まで、阪急うめだ本店 7階 美術画廊にて開催されている、「第9回 藤井路夫 油絵展」を訪ねました。パンフレットから藤井さんの挨拶文を引用します。

 私事、十三才から油絵を描きはじめました。登下校の途にある琵琶湖へ続く水路を、慣れぬ油絵の具で無心に描いておりました。その頃に、想い体感した事が、私の絵造りの根底に生き続け。今の絵の礎となっています。今尚、同じ風景を、回帰するかの心境で描いております。
 近年のスケッチ取材では、南九州の神々しき自然の表情に心響き、渡欧先では、大陸の文化や風上に感銘を受け、それぞれに、心に刻まれた感動を絵画として具現化すべく、畏敬の想いを込めて描いてまいりました。
 今展では、旧車画や木造駅舎画から、高千穂の山間風景、スペイン西部・イタリア中部の心象風景など、新作三十点を出展いたします。
 作品より現地の風を感じ、共感いただければ、幸いです。
                           画 藤井路夫

繊細で、心温まる風景画(今回は猫の画や静物画もありました)に惹かれ、二年に一度のこの油絵展を心待ちにしていました。

藤井路夫さんの web site でも、画を見ることが出来ます。http://www.eonet.ne.jp/~kazenokioku/

マメな豆の話 世界の豆食文化をたずねて 吉田よし子著

マメな豆の話
世界の豆食文化をたずねて

吉田よし子著
角川ソフィア文庫
平成30年11月25日初版発行

本書の構成は、第一章 豆と人間、第ニ章 ダイスは東アジアの食文化の横綱、第三章 豆の王国インドとその周辺、第四章 新大陸からの贈り物、第五章 野菜と果物としての豆たち、終章 豆と人間の未来となっています。

南アジアの料理に関心がある人は、第三章から読み始めてしまうと思います。同章は穀類と豆を混ぜて栽培する技術(混作)の話から始まります。インドで栽培される豆の種類に話が進み、1980年代の統計ではヒヨコマメ、キマメ、リョクトウ、マッペ(ウラド)で全体の8割弱を占めると記されています。それぞれの豆の食べ方等について記述が続きます。

ヒヨコマメ Chickpea(Chana チャナ)については、その粉ベサンを使ったものとして、ナムキーン、パコラ、ムティア、ベサンカバブ、ブンディなどが挙げられており、ロティやプーリも小麦の一部をベサンに置き換えて作ることもあると記載されています。ミャンマーではヒヨコマメの「きなこ」もよく使われるとのことです。

キマメ Pigeon pea(Toor トゥール、Rahar ラハル)については、サンバー(サンバル)とラッサムについての説明が続き、丸ごとではなく二つに割る加工を施した豆の利用の方が盛んな事、その加工技術の問題点にも言及しています。

リョウクトウ Green Gram、Mung bean (Moong ムング)については、ケジャリの話から始まり、日本でなぜ春雨の材料やモヤシで終わってしまい、豆そのものが食べる習慣がないのか考察しています。

マッペ、ウラド(と本書では記されていますが、上の3つにあわせて和名で記すならケツルアズキ) Black Gram (Urad ウラド、Maas、Mas マス)については、イドゥリ、ドーサ、アッパム、イディアッパム、パコラについて記され、ワーダ、ワダについても詳しく記されています。パパダムにも話が及びます。

レンズマメ、ヒラマメ Lentil (Musuro ムスロ、マスール)については、1996年の統計では全世界の生産量の約30%がインドとのことです。皮が柔らかく、火も通りやすいので、皮付きでも洗ってすぐに煮ることが出来、煮えるのも早いと紹介されています。この豆を使ったプラオの作り方も書かれています。

ホースグラム Horse Gram については、ミャンマーでペピザと呼ばれ、ゆで汁でのポンイェージーと呼ぶ豆いろり(だしの素)作りにページが割かれています。インドでもゆで汁でサアールというスープを作ることも調べられていました。

ガラスマメ Grass Pea ラチルスピー もそれに含まれる神経毒によって下半身麻痺を惹起する「ラチルス症」が紹介されています。

同じダルでも言語によって表現、表記が異なるので、頭の整理をしながら読んでいくと、ダルへの理解の手助けになります。上述の豆の名の表記は、本書には無いが理解のために追加したものもあります。

 

ガンジスに還る Hotel Salvation Mukti Bhawan

テアトル梅田で「ガンジスに還る Hotel Salvation Mukti Bhawan」が上映されましたので、見に出かけました。聖地バラナシ Varanasi で死を迎えたいと、父親 Daya が言いだし、解脱の家 Hotel  Salvation Mukti Bhawan に行くことになり、息子 Rajiv が仕事に後ろ髪をひかれながらも付き添うお話です。娘の結婚問題での父娘関係なども含め、家族愛が描かれていますが、ヒンドゥの人々の生活が垣間見え、バラナシやガンジスも小綺麗に映し出されていました。

バラナシで約30年前に撮った、人々の沐浴の様子です。ガンジスの対岸は不浄の地とされ何もありません。

ガンジスに還る
Hotel Salvation
Mukti Bhawan

 映画『ガンジスに還る』公式サイト

『テアトル梅田』公式サイト

 

THE ASCENT OF THE EVEREST BY JOHN HUNT エベレスト初登頂 ジョン・ハント

THE ASCENT OF THE EVEREST
JOHN HUNT

エベレスト初登頂
ジョン・ハント著
吉田薫訳
エイアンドエフ
2016年8月10日初版発行

訳者あとがきにて、この本が出版されるに至った経緯を記されています。

一九五三年五月二十九日、エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイが、世界で初めてエベレスト登頂に成功し、遠征隊の隊長を務めたジョン・ハントが帰国後わずか一ヵ月で ”早く伝えてほしいという要望に駆り立てられるように” 書き上げた〈The Ascent of Everest〉は、早くもその年の秋にイギリスで刊行された。そして、日本でも登頂から一年を待たずに、邦訳(『エヴェレスト登頂』田辺主計・望月達夫訳、朝日新聞社刊)が出版されている。世界中の人々が当時、夢中になって読んだというその名著が、日本では長らく絶版となっていたため、このたび、あらためて二〇一三年版から翻訳出版する運びとなった。それが本書である。

遠征の準備から登頂、帰国に至るまでが詳細に記述されています。どれだけ、隊員とシェルパが一致協力して、ルート工作や上のキャンプへの荷上げなど献身的な労務を繰り返さねばならないか、組織としての見事なチームワークがよく読み取れます。著者は、最後の「回想」で

これまでの遠征隊は、到達した高度はともかく、それぞれが経験を積み重ねてきたことに意義があったのであり、この経験が相当な高さに積み上げられていなければ、この山の謎を解くことはできなかった。このピラミッドのように築き上げられてきた経験こそが、一切の鍵を握っていたのである。つまり、このピラミッドがある高さに達していなければ、どこの登山隊が全力であたっても登頂は果たせなかった。そう考えると、これまでの遠征隊は失敗したのではなく、むしろ前進したことになる。その前進を受けて、昨年の冬、われわれは再びエベレストに挑む準備に入った。その頃には、長年にわたって登山家を退けてきたあの山の ”守り” がどういうものなのか、以前にはわからなかったことがかなりわかっていた。あとはただそれを検討して、正しい結論を導き、エベレストと闘うために必要な物と人を備えた遠征隊を送り出すだけだったのである。われわれ、一九五三年エベレスト遠征隊は、先人たちとこの登頂の栄光を分かち合えることを誇りに思っている。

と、過去に敬意を払い、科学的な根拠をもとに周到な準備をすることの重要性を述べています。エドモンド・ヒラリーは「2001年版あとがき」で、

多くの優秀な遠征隊が登頂に失敗していたときに、われわれはなぜ成功できたのか。まず、われわれは現在の水準に照らせば特に優れていたわけではないにせよ、有能な登山家たった。組織は盤石で、適切かつ充分な装備を持っていた。生理学者は大量の水分を摂ることを力説し、われわれはそれに従った。それでもわたしの体重はベースーキャンプを設営したときから下山までに10キロ近く減っていた。エベレストの頂上に達して生き延びることが果たして人間の力で可能かどうかは、生理学者にもわかっていなかったので、それもわれわれが乗り越えなくてはならない壁だった。

 われわれは確かに健康で、強い意欲をもっていた。われわれの酸素補給器は不安定だったが、充分に役に立った。そして、ちょうどよいときに天候に恵まれた。つまり、成功はさまざまな状況が重なった結果だったのた。わたしは、ある意味で、エベレストは登られるのを待っていたような気がしている。そして、タイミングよくそれができる用意があったのが、われわれだったのだ。

と、それまでに積み重ねられた高所の生理学・医学を念頭においた準備に言及しています。本書の資料として、「装備」「酸素」「食事」「生理学と医学」の各項目が詳細に解説されています。

某「登山家」がエベレストで遭難されたとのニュースを目にして、発売当初に既に読んでいた本書を改めて読み直してみました。「有能な登山家」でさえも、シェルパや隊員全体の協力が不可欠な世界としか思えないエベレストで、「単独」を標榜することに拘らざるを得なかったことが悲劇の始まりだったのでしょうか。

The Himalayan Times の記事を読むと悲しくなります。

According to Tikaram Gurung, Managing Director at Bochi Bochi Treks, Kuriki along with four Sherpa guides had headed to the higher camps to make the final summit push on Mt Everest.
略)
Kuriki reportedly wanted to make a solo attempt on Mt Everest without using Sherpa support and bottled oxygen this season.

ネパールではエベレストを含む山々での「単独」登山は、既に政府によって禁止されていたはずです。

One of the major changes in the regulation is the mandatory provision of taking guides while climbing the mountains, including the world’s highest peak. “From now on, foreign climbers will be banned from making a solo attempt on Mt Everest,” said Neupane. It will ensure foreign climbers are in safe hands of Nepali high-altitude guides or climbers. Besides, it also means more jobs for Nepalis, said government officials. With the rise in the number of solo climbers on Mt Everest, the number of accidents has also increased in recent times. Vladimir Strba, 49-year-old Slovakian climber, and Swiss alpinist Ueli Steck died on Everest while making a solo climb this spring season (April-May).

http://kathmandupost.ekantipur.com/news/2017-12-29/govt-comes-up-with-stringent-safety-rules.html

 

現代ネパールの政治と社会ー民主化とマオイストの影響の拡大(明石書店)

現代ネパールの政治と社会
民主化とマオイストの影響の拡大

Politics and Society in Modern Nepal: Democratication and the Expansion of the Maoists’ Influence.

南 真木人、石井 溥 編集
明石書店
2015年3月31日初版第1刷発行

ひょんなことから国立民族学博物館の研究者の方と食事で同席させて頂き、これも何かのご縁かと、久しぶりに万博記念公園にある同館を訪れてみました。博物館、美術館を訪れると、Book Storeでついつい時間を費やしてしまいます。この時も数冊本を購入しました。その中の1冊です。

「はじめに」として、以下の様に本書は始まっています。

本書は近年のネパールの政治と社会を主題とし、ネパール共産党(毛沢東派)(以ド「マオイスト」と省略)の武装闘争とそこから拡大した内戦、および、それ以後の政治の表舞台へのマオイストの登場の時期に注目するものである。マオイストが力を得た経過・理由、その思想などを把握することは、今日のネパールとその行方を理解するうえで重要であるが、これは、それにできるだけ接近するために行われた国立民族学博物館での共同研究の成果の一部である。 

内容の概略については

一~三章、および七章は、それぞれ異なる面からマオイストの動きとその影響を論じたものである。四~六章では、内戦の時期を含めつつ特定の地域やグループに焦点をあててネパール社会の変化と人々の行動を分析する。八~十章は、マオイストや民族・地域に注目しつつ、内戦後はじめての選挙(○八年)をそれぞれ異なる視角から扱っており、十一章は近年のネパール社会を把捉するために重要と考えられるジェンダーに関わる問題を論じている。

と書かれています。

中学校時代に英語を教えて下さった先生が、ネパールに渡り障がい児教育に尽力されていた時期が、丁度この時期と重なります。異なる宗教ゆえに、マオイストから殺害予告も出されたり、カトマンズの教会が爆破された知らせも伝わってきました→BBC News “Church in Nepal hit by explosion”。その顛末の一部は「大木神父奮戦記」にも記載されています。遠い国、日本からみると、マオイストの過激な行動だけが印象に残ったものでした。しかし、それだけではネパールの人々が受け入れるはずもなく、

マオイストは暴力や脅迫だけではなく、歌や踊りや芝居を通じた宣伝にも力を入れていた。

とある様に、従来のネパールの社会には無かった共産主義的な思想の浸透手法も用いられました。

本書は、異なる視点からマオイストに焦点を当てながらも、当時の特に田舎のネパールの様相が、フィールドワークの成果として描き出されています。マオイストと政府軍の板挟みとなり、付かず離れずの態度を取らざるを得なかった人々の実態も窺い知れます。同時に、マオイストが持ち合わせ、それらの人々に足らなかったものも浮き彫りにしています。

こうしてみると、マオイストがマガル人の村にもたらしたものは、論理的に話す、あるいは書き留めるといった広義のリテラシーと、権利や公正、正義を追求するといった「近代」の価値観そのものであった。

その価値観に、人々を目覚めさせた事も、マオイストの功績なのかも知れません。

今回の選挙におけるネパール全体でのマオイストの勝利は、一九九〇年の民主化以後、人権意識や正義の拡大という近代化が確実に進展した証とも読みとれるだろう。これまで社会的に抑圧され、政治的な権利を奪われてきた民族やグリッド、女性のあいだにも「開発」や教育が普及したからこそ、近代化としてのマオイズムが受け容れられ、これほどまでに支持者を増やしたと逆説的に推論できるのである。

あとがきで、

本書はネパールのマオイストが反政府武装闘争を繰り広げた「マオイスト運動」期と二〇〇六年に政党に戻り、政治の表舞台に登場した「マオイスト政治」期を取り上げ、現代ネパールの政治と社会を多面的に理解しようとする試みである。いずれの論考もマオイストの運動や政治を前景ないしは後景に置き、体制が変わる激動のネパールの諸相を描写しているが、伝えきれていないものがあるとしたらそれは、論文という形ではなかなか表現できない、人民戦争期の張り詰めた空気であっただろう

と書かれている様に「ネパールの諸相」を、少しばかり覗くことが出来ます。

厭戦気分の高まりと平和を願う気運は、第一回制憲議会選挙前、多くの人に「マオイストを二度とジャングルに戻らせてはいけない。そのためには選挙で彼らにある程度勝たせなければならない」という考えを抱かせた。だからといって、自分の一票を意に染まないマオイストに投じた人が多かったとは思えないが、選挙後にはマオイストの勝利を認めたくない人々を中心に、そうした動機とその元にある恐怖が制憲議会選挙におけるマオイストの勝因であったと主張された。マオイストを捉える人々の意識についていえば、マオイスト白身もそうであったが、誰もが情勢を見誤ってばかりだったのである。本書でも明らかになったように、多様な地域や属性の人々の異なる意識や対応が、状況の全体を掌握することを難しくさせてきたといえる。その意味で本書がそうした見誤りを少しでも是正することにつながればと自戒を込めて願う。

と最後に結んでおられます。

国立民族学博物館の web siteにも、「マオイスト運動の台頭と変動するネパール」と題して研究プロジェクトの紹介がされています。

10万個の子宮 村中璃子著 平凡社

10万個の子宮

あの激しいけいれんは子宮頸がんワクチンの副反応なのか

村中璃子著 平凡社
2018年2月7日 初版第1刷

産婦人科医としてご活躍され、現在は兵庫県予防医学協会にお勤めの、谷俊郎先生が寄稿された文章を拝読して、この本が刊行されたことを知りました。

傘寿の寄稿文依頼が届きました。さて何を書けば良いのやらと思案していた矢先にネット配信で次のようなニュース項目が目に留まりました。
「子宮頚がんワクチンの安全性発信、村中医師が受賞 12月18日19 : 58配信朝日デジタル」
 内容は「子宮頻(けい)がんワクチンの安全性を発信してきた医師でジャーナリストの村中璃子氏が、英科学誌「ネイチャー」などが主催する「ジョン・マドックス賞」を受賞した。日本人として初という。受賞を受けて村中氏らは18日、都内で会見を開いた」と言うものでした。
 ウイキペデイアによりますと、ジョン・マドックス賞は公共の利益に関わる問題について健全な科学とエビデンスを広めるために、障害や敵意にさらされながらも貢献した個人に与えられる2012年に始まった国際的な賞とありました。村中璃子氏は一橋大学卒業後同学院で国際社会学を専攻され、その後北海道大学医学部に入学、医師免許取得後はWHOの新興国感染症チームに所属して感染症対策に従事されました。帰国後は肺炎球菌の疫学調査に取り組まれ、この調査研究が厚労省に引き継がれて肺炎球菌ワクチンの定期接種に繋がったと言われています。 2016年から京都大学大学院医学研究科の講師に就任された才媛です。
 抗生物質の効かないウイルス感染症に対してはワクチン接種による免疫力で感染を防止するのは最善の手段です。しかしワクチンという異物を身体に植え付けることによって、古くはジェンナーの種痘以来数多くの副反応や社会問題が発生してきました。
 子宮類がんはヒトパピローマウイルス(HPV)の性感染によって発生します。従って初交前の中高生に対して2013年4月から公費負担の定期接種が開始されました。ところが皆様もご存知の通り、子宮頚がんワクチンを接種した少女が稀に全身の疼痛や痙攣を発症するということがメディアによって大々的に報じられ、接種との明確な因果関係は不明のまま厚労省は定期接種の積極的勧奨を取り止め、被害者団体は国と製薬会社を相手取って訴訟を起こしています。その結果、我が国の子宮頚がんワクチン接種率は70%台から1%以下に著しく低下しています。
 また「症状はあれど証拠なし」の少女達に有効な治療法が見つからないまま、医学的なエビデンスを無視した感情的なワクチン反対運動も展開されるようになりました。
 厚労省から委託を受けてこの問題を調査していた信州大学脳神経内科学教室の池田修一教授ら(池田班)は、2016年3月に子宮顕がんワクチンが特定の白血球型の人に「自己免疫」というメカニズムで脳神経に障害をもたらすという仮説を立て、動物実験によってこれを証明したと発表しました。メディアはこれでこの不可解な症状の証拠が挙がったと大々的に報道しました。
 他方、2015年12月に名古屋市が、市内に住む若い女性約7万人を対象に行った調査と、2016年12月に厚労省研究班(阪大祖父江教授ら)が行った全国調査では、ワクチン接種と有害事象の間に因果関係は証明されませんでした。
 この膠着状態に危機感を抱いて独自の調査を行って警鐘を鳴らしたのが村中氏でした。
 2014年から取材を開始して、少女に見られる痛みや痙攣などの発作は接種以前から小児科医達は心因性の反応として接種とは無関係に数多く経験していたこと、前述の信州大学池田班の報告には不正や捏造があることを厳しく指摘しました。
 これを受けて信州大学では調査委員会を設けて調査した結果、池田教授の報告は不適切であると判定し、厚労省もこれを認めました。
 2016年3月30日、「全国子宮頚がんワクチン被害者連絡会」が国と製薬会社を相手取って訴訟を提起しました。支援するのはHPVワクチン薬害訴訟全国弁護団です。
 2016年8月17日、池田教授は村中氏と出版元の月刊誌「Wedge」を名誉毀損で告訴しました。
 訴訟が提起された段階で論争は科学論争から法廷闘争に移ってしまいました。
 村中氏はワクチン反対運動を科学的なエビデンスを無視した薬害騒動と捉え、日本から世界に波及することに警鐘を鳴らす報道を2015年から雑誌やウェブサイトなどで積極的に行いました。しかし訴訟が提起されてからは彼女の論文の掲載を断る出版社が続出し、彼女を誹膀中傷する抗議文が多数寄せられるようになりました。
 こうした中で2017年12月、科学界のピュリッツァー賞とも言われる「ジョン・マドックス賞」が彼女に授けられたのです。
 現在我が国の子宮頚がん患者数は年間約1万人といわれ、約3千人が死亡しています。しかも20代30代の若い女性の罹患が増えています。適切な治療によって命を失うことを免れても治療の結果、妊娠する能力を損なう可能性があります。
 既にワクチンを導入している欧米諸国では子宮頚がんの前がん病変の発生が半減したという報告があります。
 わが国が子宮頚がんの後進国に陥らないよう、一日も早いHPVワクチンの積極的な接種勧奨の再開と、症状を訴える少女たちの救済が望まれます。
 WHOは2015年12月に我が国のワクチン接種勧奨の中止を、乏しい根拠に基づいた政策決定であると名指しで批判しました。
 日本産科婦人科学会や日本小児科学会も一刻も早い接種勧奨の再開を求める声明を発表しています。
 村中氏は受賞式のスピーチで苦しかった道程を振り返るとともに、ワクチン接種の再開が10年遅れることによって「10万個の子宮」が損なわれると述べました。
 そしてスピーチの最後を次のように締めくくっています。
『・・・今週に入ってから、9番目に話をした出版社である平凡社から、本の刊行を決定したという連絡をもらった。本はできている。本のタイトルは「10万個の子宮」という。』
本稿執筆中の本年2月7日、「10万個の子宮」の初版は発売され手元に届きました。

ジョン・マドックス賞の審査委員会の講評を、本書の「はじめに」の中で

「子宮頸がんワクチンをめぐるパブリックな議論の中に、一般人が理解可能な形でサイエンスを持ち込み、この問題が日本人女性の健康だけでなく、世界の公衆衛生にとって深刻な問題であることを明るみにしたことを評価する。その努力は、個人攻撃が行われ、言論を封じるために法的手段が用いられ、メディアが委縮する中でも続けられた。これは困難に立ち向かって科学的エビデンス(証拠)を守るというジョン・マドックス賞の精神を体現するものである」

と引用されており、

これは日本という国への警告である。

とも記されています。

その受賞を知らせる、The Guardianの2017年11月30日付け記事「Doctor wins 2017 John Maddox prize for countering HPV vaccine misinformation」から抜粋していくと、

Muranaka was praised by colleagues for her courage and leadership as she endured insults, litigation and attempts to undermine her professional status as the HPV vaccine came under attack in Japan. While the jab is used without fuss in many countries, in Japan and some other nations, fears raised by campaigners have hit vaccine uptake rates.

と彼女の苦境がはっきり記述され、

Muranaka said sensational media coverage helped spread unfounded fears over the HPV vaccine across Japan. “I was really surprised that people believed it so easily. With screening and this vaccine, we could prevent many deaths from this disease in Japan, but we are not taking the opportunity,” she said. A handful of other countries are witnessing similar trends, with Ireland and Denmark both experiencing falls in HPV vaccination rates.

マスコミの報道のあり方にも釘を刺しておられますが、当のマスコミの多くは今回の受賞の会見にも現れず、報道もしない事で、彼女を無視し続けるだけの様です。

NHKは全員が忙しいとのことで、会見に1人の記者も出さなかった。

この問題を考えた時に、海外の予防接種の専門家も、攻撃的で否定的なソーシャルメディアやネガティブな個々の話にバイアスがかかった主流のメディアの影響と共に、国がしっかりとこのワクチンや免疫科学を擁護しない点に言及されています。

Heidi Larson, director of the vaccine confidence project at the London School of Hygiene and Tropical Medicine said there was no scientific evidence linking HPV to the reported neurological symptoms. “The dramatic drop in vaccine acceptance has been influenced by aggressive negative social media, mainstream media that has been biased towards the negative personal stories, as well as, and very importantly, the government not standing up for the vaccine and the vaccine science in the face of public anxiety and uncertainty,” she said.

本書「序章 並べられた子どもたち」の中で、

昨今、科学的根拠に乏しいオルタナティブファクトやフェイクニュースが、専門的な知識を持たない人たちの「不安」に寄り添うように広がっている。筆者は医師として、守れる命や助かるはずの命をいたずらに奪う言説を見過ごすことが出来ない。書き手として、広く「真実」を伝えなければならない。これが本書を執筆することになったきっかけである。

「第1章 子宮頸がんワクチン問題とは何か」の中では、

医学会からは、記事を発表後、驚くほど多くの賛同の声が寄せられるようになった。一方で、製薬会社の回し者だ、国のプロパガンダを広げる御用医師だ、WHOのスパイだといった根も葉もない中傷を寄せる人もいた。問題の根の深さを考えると、そういった反応があるのは想定の範囲内だったとも言える。しかし、考えてみてほしい。この記事を書くことはリスクになれど、どんな得になるというのだろうか。

と、逆境の中で真実を見極めようとした著者の決意が述べられています。さらに「あとがき」で、

小さな危険のサインを見逃さないことも大切だが、解析に耐える規模のデータをもとにバイアスを排除した解析を行うのが科学。経験は限られていることを念頭に置き、逸話的症例に飛びついて誤った結論を出さない謙虚さも必要だ。

と、医学は科学でもあり、データをきちんと解析して、社会全体の利益を見据えなけばならないという、ごく当たり前の事に触れられています。

WHOはHPVワクチンの安全性について、日本を名指しの上、言及しています。

Safety update of HPV vaccines

Extract from report of GACVS(Global Advisory Committee on Vaccine Safety) meeting of 7-8 June 2017, published in the WHO Weekly Epidemiological Record of 14 July 2017

Where HPV vaccination programmes have been implemented effectively, the benefits are already very apparent. Several countries that have introduced HPV vaccines to their immunization programme have reported a 50% decrease in the incidence rate of uterine cervix precancerous lesions among younger women. In contrast, the mortality rate from cervical cancer in Japan, where HPV vaccination is not proactively recommended, increased by 3.4% from 1995 to 2005 and is expected to increase by 5.9% from 2005 to 2015. This acceleration in disease burden is particularly evident among women aged 15–44 years.28 Ten years after introduction, global HPV vaccine uptake remains slow, and the countries that are most at risk for cervical cancer are those least likely to have introduced the vaccine. Since licensure of HPV vaccines, GACVS has found no new adverse events of concern based on many very large, high quality studies. The new data presented at this meeting have strengthened this position.

名古屋市の7万人調査に関して、結果は

子宮頸がんワクチンが、日本人の間で「薬害」というレベルの副反応を引き起こしている可能性がないことを科学的・免疫学的に証明している。

にも拘わらず、名古屋市の不可解な対応も詳細に本書で記されています。

当初、名古屋市は、鈴木教授の行った最終解析が論文の形でも世に出ることに難色を示し

たそうですが、その名古屋市立大学鈴木貞夫教授の論文が刊行されることになりました。
Sadao Suzuki and Akihiro Hosono: No association between HPV vaccine and reported post-vaccination symptoms in Japanese young women: Results of the Nagoya study. Papillomavirus Research. 96-103. 2018

The results suggest no causal association between the HPV vaccines and reported symptoms.

日本産科婦人科学会も平成29年8月28日付けでHPVワクチン(子宮頸がん予防ワクチン)接種の積極的勧奨の早期再開を強く求める声明を出しています。

 HPVワクチンは、子宮頸がんの一次予防を目的として平成25年4月に定期接種化されましたが、同年6月にその接種の積極的勧奨が中止され4年以上が経過しました。日本産科婦人科学会は、平成27年8月および29年1月に、本ワクチン接種の積極的勧奨再開を求める声明1,2)を発表してきましたが、今回、以下の根拠に基づき、再度HPVワクチン接種の積極的勧奨の一刻も早い再開を強く求めます。

 子宮頸がんは20〜40歳代の女性で増加しており、国内では年間1万人以上が罹患しています。また年間約2900人が死亡し3)、過去10年間で死亡率が9.6%増加しています4)。子宮頸がん予防のためには、一次予防としてのワクチンが、二次予防としての検診(細胞診)とともに必須であることはグローバルコンセンサスとして確立しています。HPVワクチン接種を国のプログラムとして早期に取り入れた英国・豪州などの国々では、ワクチン接種世代のHPV感染率の劇的な減少と前がん病変の有意な減少が示されています5)。一方、日本においては平成22年度からHPVワクチン接種の公費助成が開始され、その対象であった平成6〜11年度生まれの女子のHPVワクチン接種率が70%程度であったのに対して、平成25年6月の接種の積極的勧奨中止により平成12年度以降生まれの女子では接種率が劇的に低下し、特に平成14年度以降生まれの女子では1%未満の接種率となっています6-8)。その結果として、将来の日本では、接種率が高かった世代においてはHPV感染や子宮頸がん罹患のリスクが低下する一方で、平成12年度以降に生まれた女子ではワクチン導入前世代と同程度のリスクに戻ってしまうことが推計されています8-10)。この負の影響を少しでも軽減するためには、早期の積極的勧奨の再開に加え、接種を見送って対象年齢を超えてしまった世代にも接種機会を与えることも検討する必要があります9-11)

 WHO(世界保健機関)は平成27年12月の声明の中で、若い女性が本来予防し得るHPV関連がんのリスクにさらされている日本の状況を危惧し、安全で効果的なワクチンが使用されないことに繋がる現状の政策決定は真に有害な結果となり得ると警告しています12)。さらに平成29年5月に発表されたHPVワクチンに関するWHO の最新のPosition paper 13)では、9〜14歳の女児に対しては2回接種(15歳以上は3回接種)を推奨しており、日本で承認されている2価、4価のHPVワクチンに加えて、日本で未承認の9価ワクチンも高い安全性と有効性を示し、これらの接種を国のプログラムに導入することを強く推奨しています。日本では公費接種対象年齢が12〜16歳であり、2回接種の導入は現状では直ちには困難であり、先進国を中心とした世界のHPVワクチン接種推進の流れに大きく遅れをとっています。

 国内においても本ワクチンの有効性に関する複数の研究が進行中であり、そのデータも蓄積されてきています。

  1. 平成27年より厚生労働省科学研究「革新的がん医療実用化研究事業」14)として新潟県において開始されたNIIGATA STUDYでは、平成28年度までに登録完了したワクチン有効性の中間解析において、20〜22歳におけるHPV16/18型の感染はワクチン非接種者に比してワクチン接種者で有意に低率であり、大阪府で行われているOCEAN STUDYでも同様の結果でした。
  2. 宮城県における平成26年度の20~24歳女性の子宮頸がん検診データの解析では、HPVワクチン接種者のASC-US以上の細胞診異常率は有意に減少していました15)。秋田県における子宮頸がん検診のデータでも同様の結果が示されています16)
  3. 国内21施設で前がん病変および子宮頸がんと診断された女性のHPV16/18型感染率を調べる観察研究(MINT Study)において、20~24歳ではHPV16/18型感染率が有意に低下し、出生年コホートでは症例数は少ないものの、前がん病変(CIN2-3/AIS)におけるHPV16/18型感染率が昭和61〜平成5年生まれに比して平成6〜7年生まれでは有意に低下していました17)。HPV16/18型は日本人の20歳代の子宮頸がんの90%、30歳代の76%の原因となっていることから18)、HPV16/18型感染の減少により、今後子宮頸がんの減少も証明されるものと期待されます。

 今後のさらなる症例の蓄積と解析結果に基づいて、国内での本ワクチンの有効性が示されてくるものと考えます。

 一方、ワクチン接種後に報告された『多様な症状』に関しては、国内外において多くの解析が慎重に行われてきましたが、現在までに当該症状とワクチン接種との因果関係を証明するような科学的・疫学的根拠は示されておらず、WHOは平成29年7月の最新のHPVワクチンSafety updateにおいて、本ワクチンは極めて安全であるとの見解を改めて発表しています19)。平成28年12月開催の第23回副反応検討部会6)では、厚生労働省研究班(祖父江班)による全国疫学調査の結果に基づき、HPVワクチン接種歴のない方でも、HPVワクチン接種歴のある方に報告されている症状と同様の『多様な症状』を呈する者が、一定数(12〜18歳女子では10万人あたり20.4人、接種歴不明を全員「接種歴なし」と仮定した場合46.2人)存在することが報告されました20)。また平成29年7月の第28回副反応検討部会においては、厚生労働省研究班(牛田班)から、HPVワクチン接種歴があり症状を呈する方に対する認知行動療法的アプローチの効果に関する解析結果が示され、症状のフォローアップのできた156例中、115例(73.7%)は症状が消失または軽快し、32例(20.5%)は不変、9例(5.8%)は悪化したと報告されました21)。今後も私どもは、HPVワクチンの接種の有無にかかわらず、こうした症状を呈する若年者の診療体制の整備に、他の分野の専門家と協力して真摯に取り組んでまいります。

 日本産科婦人科学会は、将来、先進国の中で我が国に於いてのみ多くの女性が子宮頸がんで子宮を失ったり、命を落としたりするという不利益が、これ以上拡大しないよう、国が一刻も早くHPVワクチン接種の積極的勧奨を再開することを強く求めます。