ベトナム報道1300日 ある社会の終焉 古森義久著 講談社文庫

ベトナム報道1300日
ある社会の終焉

古森義久著
講談社文庫
昭和60年4月15日第1刷発行

著者が文庫版あとがきにて

ベトナム戦争中、日本ではわがマスコミをはじめ多くの向きが、この戦争の実態について重大な誤認をおかしていたことがいまではすでに明白となっている。たとえば闘争の主役は一貫して北ベトナム軍であったのに、「この戦争は南独自の解放勢力による闘争で、北は直接、軍隊を送っていない」と断じたことや、北ベトナムにははじめから南ベトナム政府を軍事粉砕する方針しかなかったのに、「戦争の交渉解決を」と叫びつづけたことなど、その一端である。

と述べている様に、歴史を振り返った時にベトナム戦争は何であったかを、時世に流されて報道した他のマスコミとは一線を画し、ジャーナリストとして的確に事実を把握、伝えようとした記録です。

これまでは国際問題についていかに間違った、ゆがんだ評価を声高に語りつづけても、その間違いを後から指摘されることはまずなかった。いかに公式の場や活字によって、結果としての大間違いのコメントをしても、その非を責められることはなく、ミスをおかした人物が、そのメディアが、何の修正もせずに、また新たな問題について、これまた結果として間違いの論評を堂々とする、というケースが少なくなかったのである。

とも記し、過去および当時のメディアを厳しい目で評している点は、事実を正しく伝えないばかりか、特定のイディオロギーに基づいた誤った情報を発信する、過去および現在のメディアをも評している様に思えます。

後に72年春季大攻勢と呼ばれた、北ベトナム「南」解放戦線軍による全国規模の激しい軍事攻勢が行われた直後の1972年4月にサイゴン特派員として赴任、前線での取材なども行います。北爆を実施する米航空母艦の取材した際、パロットとの会見での様子を描写するとともに、次のようなパイロットの言葉を記しています。

アメリカ国民はベトナムの実態について完全に誤解している。それは主にマスコミの責任だ。反戦運動で四十人の学生が大学の建物を占拠しても大きく報道されるが、五千人の南ベトナム人が北軍の砲撃を受け殺傷されてもほとんど無視される

報道のあり方が、如何に偏り、かつ北を利するものであったかについて

報道陣はアメリカ流の「言論の自由」を常に錦の御旗として、軍の報道規制もなんのその、ただひたすら真実を追う。群が隠そうとする機密でも「公共の知る権利」のためにあくなき追及を繰り返し、あばいてしまう。それが正しい、あるべき報道機関の態度であり存在意義だ、と賞賛される。しかし向こう側にいる戦争当事者、つまり敵にとってこんなありがたい、また貴重な情報源は無い。(中略)そして実際に、南ベトナムの密林にひそむ北の主力軍が、ハノイを経由し伝わってくるサイゴン発の西側通信社などの報道をいかに頼りにしていたかは、後に北ベトナム軍の完全勝利後、参謀総長のバン・チエン・ズン将軍が長大な回顧論文の中で、はからずも明らかにしてくれた。

と、はっきりと理解するまでには、氏自身も4年を要したとのことです。その後、和平協定が発効して60日目の1973年3月29日、最後の米軍部隊が南ベトナムを去る日には、タンソンニュット基地で儀式を見守ります。

南ベトナム社会の平均的な人たちとの接触を重ねるうちに、市民の「チュー政権(南ベトナム政府)も嫌だが、北ベトナムや解放戦線はもっといやだ」という「反チューかつ反共」の反応に気付かされます。政治家や学者の話を聞き、

抗仏の民族独立闘争の初期には、右派から左派まで様々な民族主義勢力が合体し、ゆるやかながら抗仏連合戦線を結成していた。ところが史実として知られるように、ホー・チ・ミン主席の率いる共産党がその連合戦線の中で着実に他派を排除して民族自決の闘争を独占していった。マルクス・レーニン主義を信奉することなしに民族独立を達成しようとする各勢力は暗殺や欺瞞を」含むありとあらゆる手段で「民族主義陣営」から除去された。民族主義者であっても同時に共産主義者でなければ、「真の民族主義者」たりえないというベトナムの闘争独特の規範が形成されていったのである。

とまとめています。このことを踏まえ、

ベトナムの民族闘争は言うまでもなく民族独立と共産主義革命という二つの大目標を目ざしていた。(中略)しかし長い闘争の期間中、二つの大目標のうちの一つ、共産革命はずっと背後に隠され民族独立だけが前面に押し出された。現代社会では植民地主義、他国支配を悪とすることに反論はない。従ってその「悪」を排除する民族解放闘争の正義は誰もがうなずく「自明の理」である。しかし共産主義革命も同様に自明の正義かどうか、これにはまだ全世界のコンセンサスはない。だから自明の正義である民族解放だけを前面に掲げ、議論の余地のある共産主義革命を後方に引っ込めるのは闘争への国内、国外からの幅広い支援を得るためには非常に賢明な戦略であった。

とベトナム戦争の本質を解説します。

1974年1月、革命政府支配区(解放区)への10日間の潜入取材も果たします。北の正規軍の関与について、

解放政府地区を防御する人民解放軍主力の実態は、やはり北ベトナムから南下してきた正規軍師団であった。(中略)アメリカ、サイゴン政府軍は一貫して南ベトナムの革命闘争は北ベトナムが直接総力を投入して実施しており、革命軍の主力は北の正規軍だと、との主張を公にしていた。これに対し北ベトナム、南革命政府側は南での闘争はあくまで南ベトナム独自の勢力により、軍隊も南の人民解放軍だという建前を崩さず、北の正規軍が南に下っていることは公式には絶対に認めようとしなかった。

と結論づけ、通訳としてついてくれた人物から、

南の人民解放軍の正規軍というのは北ベトナムからの正規軍師団であり、その構成メンバーはほぼ全員、北出身の兵士である。たまには南の人間だけで編成した正規軍部隊もあるが数は極く少ない

という言葉を引き出しています。

前出のベトナム人民軍(北ベトナム)参謀総長バン・チエン・ズン大将の回顧録も引用しています。

ズン将軍の戦記は、南での闘争が終始一貫北ベトナムで編成装備され、ハノイからの命令と補給で動く人民軍を主力として推進されたことや、そもそもベトナム民族闘争はマルクス・レーニン主義を信奉するベトナム労働党がすべて指導し実施した経緯を、大胆かつ率直に述べている。また闘争の大目標は民族独立のみならず共産主義革命であり、マルクス・レーニン主義路線を貫いた点にこそ勝利の原因がった、とも断言している。南ベトナムの開放は最初から最後まで武力革命による以外はありえないと決定されていたことも、この戦記は明快に記している。

1975年3月5日にはサイゴン政権のグエン・バン・チュー大統領が、記者団との会見に応じます。北ベトナム軍の攻勢は増し、3月26日フエ(ユエ)が制圧され、3月27日にはクーデター計画が摘発され、3月29日ダナンも陥落、次いで4月1日ニャチャン陥落、4月8日南ベトナム空軍所属の F5 戦闘爆撃機による大統領官邸爆撃、4月9日スアンロクへの大攻撃、4月20日スアンロク陥落、4月21日チュー大統領辞任、チャン・バン・フオン大統領就任と続きます。この間の、何とかして国外に脱出しようとするベトナム人の様子や、すさまじいインフレなども記されています。チャン・バン・フオン大統領がズオン・バン・ミン将軍に政権を引き渡すべく画策する中、4月25日チュー前大統領が国外逃亡します。4月27日サイゴン市内への砲撃が始まります。4月28日ズオン・バン・ミン大統領就任、革命側に呼びかけた即時停戦の交渉を拒否される。4月29日タンソンニュット空港への爆撃、アメリカ政府機関の全面撤退。ミン大統領、再度特使を革命側に派遣し停戦交渉を試みるも拒否される。4月30日正午過ぎ、独立宮殿の正面ゲートを北軍の戦車が打ち破り、革命側が作成した無条件降伏の声明を読み上げさせるために、ミン大統領を放送局に連行。ズン将軍ら北軍首脳はサイゴン北方の前線司令部のラジオでこの降伏声明に耳を傾けます。その直後の、国防省、独立宮殿の中の様子などが描写されています。独立宮殿の正面では、有名な写真、一番乗り戦車の突入場面を再構成し何度も撮影、宮殿内で大階段を突撃していく兵士のシーンの撮影が繰り返し行われていたそうです。(下の写真は「ホーチミン作戦博物館」に展示されている、突入場面)

5月15日の勝利祝賀式典では、「北」が永年、全世界に向かって叫んだ主張を勝利後わずか二週間であっさりと捨て去ります。北ベトナムのナンバー4である、ファム・フン北ベトナム労働党中央員会政治局員が、「南ベトナム」の国家元首に当たるグエン・フー・ト議長や、首相のフィン・タン・ファット氏よりも上位の、革命政権の最高責任者として登場しました。

アメリカは一貫して、南の闘争の中枢は労働党組織だと指摘してきた。「労働党南ベトナム中央司令部」という組織があり、その最高責任者がファム・フン氏だとも断言してきた。(中略)ハノイは無論、こういうアメリカの主張をプロパガンダとして否定し続けた。日本でも多くの人がこのハノイの言い分を支持した。(中略)ところが何のことはない。アメリカが指摘していたとおりの事実をハノイ首脳みずからが公然と示したのである。

その後、日が経つにつれ、人民裁判、軍事裁判、公開銃殺などが実施されるようになり、旧政権の将兵、警官、行政職員にも、明らかな報復としての処刑が頻繁に行われる様になります。旧南ベトナム軍兵士や旧政府の中堅以上の職員の「再教育」も始まり、30万人とも40万人ともいわれる人がトラックで連れ去られた後、何時までも戻ってくることはありませんでした。

南ベトナムを支配することになったはずの臨時革命政府は、不思議なことにいつまでたっても登場してきません。労働党(北ベトナム共産党)がすべてを掌握したままでした。市民への徹底した監視、統制、重圧は市民を悲しませます。また新たな差別も人々を嘆かします。

革命当局は当然のことながら、闘争に直接参加した人間を新社会の支柱とみなし、全面的な特権を与え優遇した。その家族も同様である。(中略)これに対しサイゴン市民の側は、旧政府に特に関係していなくても傀儡政権の支配下に住んでいたとの理由だけで、すべて「劣等ベトナム人」とか「落伍者」と判定されていた。

報道の自由も大きく制限、検閲が厳しくなり、ついに著者への国外退去命令がなされ9月6日サイゴンを離れることになりました。

古森氏は最近、池上彰氏のベトナム戦争に関する記事に関し、「池上彰氏のベトナム戦争論の欠陥」と題し、重要な指摘をされ苦言を呈しておられます。

 

南ヴェトナム戦争従軍記 [全] 岡村昭彦著 ちくま文庫

南ヴェトナム戦争従軍記 [全]
岡村昭彦著

ちくま文庫
1990年2月27日第 1 刷発行

「南ヴェトナム戦争従軍記」(1965年1月、岩波新書)、「続南ヴェトナム戦争従軍記」(1966年9月、岩波新書)として、岩波書店より刊行され、その後「岡村昭彦集1」(1968年3月、筑摩書房)に収録されたものを、文庫本にされたものです。

「南ヴェトナム戦争従軍記」では、南ヴェトナム政府軍に幾度となく従軍し、その詳細を記し、1963年11月にクーデターでゴー・ディン・ジエム大統領と弟のヌーが失脚、処刑された際の街中やジャロン宮殿の様子も描写し、当時28もあり約200万人とされた山岳民族からなる部隊にも従軍し、ホー・チ・ミン・ルートについて垣間見ようとしましたが、勿論叶うことはありませんでした。

従軍の際、南ヴェトナム政府軍の民衆に対する残虐行為をしばしば描いているが、解放戦線側の戦闘による民衆の犠牲やテロの実態には全く触れていない。

と『「悪魔祓い」の戦後史』(稲垣武 著)で指摘されています。

「続南ヴェトナム戦争従軍記」では、著者が自ら、

一つの戦争をその両側から取材するということは、一九六三年夏、私がはじめてヴェトナムの戦場の土をふんで以来の切実な念願であった。もちろん、それは極めて困難で、しかもこのうえなく危険な試みである。特に南ヴェトナム戦争場合のように、敵味方が複雑に入りみだれ、からみあいつつ激動する状況下にあっては、なおさらのことだ。しかし、そうであればあるだけ、両側から取材することは一層重要な課題となってくる。

と、巻頭に記したように、南ヴェトナム解放民族戦線の支配する解放区に潜り込むことに執心し、その記録を残しています。しかしながら、解放区の村に滞在しただけで、解放戦線に従軍できたわけではありません。「捕虜収容所日記」と題した項目では、再度解放区に潜入はしたものの、従軍出来ないどころか、屋根と柱だけの小屋に収容され監視下での生活を送ることになります。ただ、43日目に、サイゴン・ジアディン地区責任者であり、民主党書記長の、フエン・タン・ファット副議長に会うことが実現し、彼との会話の詳細が記されています。南ヴェトナム政府軍はアメリカの傀儡であるとのプロパガンダを繰り返した解放民族戦線自体や、その代表的存在のフエン・タン・ファット自身も、歴史的に振り返ると北ヴェトナムやその背後にいた中国、ソ連のお飾り的存在に過ぎなかったことは皮肉ですが、当時はそのことを知ってか知らずか、著者に好感を持たせる発言を重ねています。

独立をかちとった場合、私たちは、どこの国とも軍事同盟を結ばない、非同盟・中立の政府をつくります。

独立後の南北統一については、

北はすでに違う社会体制をもっており、それに向かって進んでいます。社会体制の異なる国が一緒になるのは、それほど簡単なことではありません。

北ヴェトナム軍との関係については、

アメリカはさかんに、北ヴェトナム軍が我々と一緒に戦闘しているようにいっておりますが、そんな事実はありません。中国はわれわれのよき理解者であり、心からの支援を送ってくれています。しかし、物質的・人的支援は受けていません。

前出『「悪魔祓い」の戦後史』(稲垣武 著)でも

生粋の共産党員であったファトを「民族ブルジョワジーの代表」としているのは、解放戦線側の偽装を信じたためであろう。米軍や「南」政府軍の発表には常に懐疑の刃をふりかざしている岡村が、解放戦線の宣伝は一も二もなく信じるのは奇異だが、その根底には解放戦線へのシンパシーがあったからに違いない。

と評されています。

写真はクチ史跡の、地下トンネルの台所、

 

 

 

ベトナム戦記 開高健著 朝日新聞社

ベトナム戦記 
開高健 著

朝日新聞社
1990年10月20日 第1刷発行

読売新聞の特派員であった日野啓三氏が、本書の最後に解説「限りなく“事実”を求めて」と題して記された文章を引用すると、

 この本は一九六四年末から六五年初頭にかけて、開高健がサイゴン(現ホーチミン市)から「週刊朝日」に毎週送稿したルポルタージュを、帰国した開高自身が大急ぎでまとめて緊急出版したものである。
 フリーカメラマンの岡村昭彦が岩波新書の一冊として出した「南ヴェトナム戦争従軍記」とともに、ベトナム戦争の現場で日本人が書いた最初の記念すべき書物であり、日本国内でベトナム戦争への関心を一挙にかきたてた歴史的な書物でもある。

とのことです。ベトナム戦争のルポルタージュとして称賛される本書ですが、読み進めていくうちに、違和感を少し覚えます。ベトナム人の“七つの顔”の章では、自身が日本の小説家と自己紹介すると、多くの知識人が教えてくれたという艶話が記されていたり、他のルポルタージュでは必ず記されている、戦争の状況に関するアメリカ顧問団(1962年2月設置)などからの情報の収集に関する詳細な記載が乏しい事についてです。確かに、南ベトナム政府が弾圧してきた仏教徒の反政府デモなど、仏教徒側の話はよく聞き、多く記されています。しかし結論として、

『人民のために働いてくれる政府』を求めて現在の政府を否定する情熱は激しいけれど、解放戦線と妥協、握手、または平和共存については、みんな全的否定、または悲観的、かつ、逃避的な意見しか述べないのである。(中略)私にとっては不思議であった。何故かわからなかった。

と記し、仏教徒が北ベトナムにおける例を挙げ、共産主義は宗教活動を圧殺し去ることを開高氏に説くと、

私は北ベトナムについての事実を知らなすぎるのである。

と、ベトナム戦争の本質で、一番重要な点を曖昧にしています。1960年12月20日設立の『解放民族戦線』が、1959年5月13日の北ベトナム労働党の第15号決議によって樹立され、「人民改革党」と名乗り実態を隠ぺいしていた「北」党の南部中央局の直接指示を受けていた事実を、仏教徒は共産主義への鋭い警戒と疑いの中で既に気が付いていたのかも知れません。後になって開高氏はべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の設立時に中心的役割を果たしたにもかかわらず、その運動から距離を置くようになったのは、反米左派勢力に強く反発したからとされていますが、北ベトナムの事実を知ることとなったからでしょうか。

最後に、アメリカ軍の手配で、ベンキャット (ベンカト、Bến Cát、Lai Khê) 基地まで行きベトナム共和国陸軍(南ベトナム政府軍)に従軍し、サマック作戦に同行し九死に一生を得たことが記されています。ベンキャットの現在は、Vietnam War Travel – Discovering the hidden places from the Vietnam War の Lai Khe Base Campの記事

Along route QL13, also known as Thunder Road, there were a string of bases during the war. One of the most important ones was Lai Khe, which served as base camp for the 1st Infantry Division from 1965-1972 along with several other American units over different periods of time. The base camp was the headquarters for the 3rd Brigade with the division headquarters not far away in Di An. The other brigades were stationed at Quan Loi, Phuoc Vinh and Dau Tieng. It was a well chosen site, right on the highway, and together with its large runway and relative proximity to Saigon, supplies could be brought in fairly easily via both road and air. Another 70 kilometers up the road, a Special Forces Camp was located in Loc Ninh.

Being located so close to Saigon meant it was an important part of the city’s outer defenses as PAVN forces later in the war would push down QL13 during its attacks. At one point, it was one of the most active areas when it came to PAVN and VC activities. Being so close to the Iron Triangle, it also meant that many operations were launched from the base even as it was a constant target for enemy attacks.

と記され、現在の周囲の様子の映像も見ることが出来ます。サマック作戦とありましたので sa mạc (砂漠)作戦かと思いきや、読み直してみるとベンキャットから北方の地名の様です。開高健記念館の web site での、企画展「開高健とベトナム」の地図では、10キロ北方で13号線より西の様です。Lai Uyên の辺りのはずですが、Xa Mac などの地名で Google map 等で探してみても見当たりません。

ベトナム戦争当時のサイゴンでの開高健氏をよく知ると言われる仁平宏氏が、この「ベトナム戦記」について、ある web site で論評されています。

開高は、帰国直後の足で箱根に一週間籠り、猛烈な想像(妄想)力を発揮して殆ど徹夜作業で編集して緊急出版したものだ。編集記者もその一週間ぴったり開高に張り付いた。開高自身も「ベトナム戦記」は“真っ赤なニセモノかどうか分らなくて書き上げた”と自ら語っている

残念ながら、今となっては開高健氏の反論を聞くことが出来ません。

下の写真は、開高健氏も見たであろう、マジェスティックホテルサイゴンから見た夜明けです。

 

カシタス湖の戦い ASSAULT ON LAKE CASITAS

カシタス湖の戦い ASSAULT ON LAKE CASITAS
ブラッド・アラン・ルイス Brad Alan Lewis 著
榊原章浩 訳

東北大学出版会
2002年5月19日 第1刷発行

1984年ロサンゼルスオリンピックのボート競技に纏わる、ブラッド・アラン・ルイス Brad Alan Lewis の自伝です。

著者がシングルスカル競技のアメリカ代表決定の選考会のレースで2位となり、オリンピック出場権を逸した事から話が始まります。オリンピックへの道は、まだ残っている、2人で漕ぐダブルスカル、4人で漕ぐクォドプルの選考会で勝つしかありません。ナショナルチームの合宿にまず呼ばれ、そこでの出来次第で、監督であるハリー・パーカー Harry Parker によって、選考会に出場するクルーメンバーとして選ばれるという過程が待っていました。残念ながら、ハリーのブラッドに対する評価は低く、このままでは選考会にはナショナルチームのクルーとしては出場すらできない立場に追い込まれます。ブラッドは潔くナショナルチームとは決別し、ポール・エンクイスト Paul Enquist と組んで、ダブルスカルでの選考会を独自で目指します。ナショナルチームから外れれば、資金や試合に使うボートも自己負担、自己調達の必要が生じます。相棒に決めたポールともいくつかの軋轢は生じ、それらを乗り越えて、選考会で勝ちアメリカ代表となります。そして最後にはオリンピックでも金メダルを取りました。

カシタス湖でのオリンピックの決勝レースの展開の記述を読んだうえで、Youtube で当時の実況放送の映像「1984 Olympic Games Rowing – Men’s Double Sculls」 を見ました。文章から想像した以上にスタートで出遅れたにもかかわらず、最終盤で先行するベルギーを抜き去る力漕でした。実況のアナウンサーと解説者が、ブラッドのクルーの代表選考の過程を端的に説明し、ポールが漁師であることも紹介しています。

訳者の榊原章浩氏もボート競技に永年携わってこられた方の様です。訳者あとがきで記されていることを抜粋します。

本書はあらゆるスポーツに共通すであろう金メダリストの精神の集中について、金メダリスト本人にしか書けないレベルで読者に明らかにしています。
(中略)
ボートを一度でも漕いだものにとって、この物語は圧倒的であり、即座に感情移入されてのめり込んでしまう。
(中略)
本書に込められている人生の目的を「正確に行い成し遂げる」という普遍的なテーマは、ボートを知らない皆様にも十分に味わっていただけたのではないでしょうか。

 

本屋 ルヌガンガ Lunuganga (高松市)

「本屋 ルヌガンガ Lunuganga」さんは、スリランカに興味を持つ人であれば覗いてみたくなるネーミングです。高松に行った際に、伺いました。まず外観からして、本屋さんらしくない構えです。奥には、カフェスペースもあり、ゆっくりとした時間を過ごすことが出来ます。お店の方とお話しすると、やはり実際に Lunuganga を訪れた事があるそうで、「Geoffrey Bawa」と題する本も置かれていました。お店の web site には以下の様に記されています。

「ルヌガンガ」という少し変わった響きを持つ店名は、スリランカの建築家、ジェフリー・バワが50年の年月をかけて作り上げた庭園邸宅の名前から、恐れ多くも拝借しています。

ルヌガンガがバワにとって年月をかけ作り上げた理想郷であったように、私たちもこの店を時間をかけ理想郷と言えるような場に育てていきたい、という想いを込めています。

香川県産のデコポンのジェラートや、コーヒーも頂いて、ゆっくりと本選びをして、本を8冊ほどと、革製の店名が焼き印されたブックカバーを購入しました。

本屋 ルヌガンガ
Lunuganga

高松市亀井町 11-13-1

 https://www.lunuganga-books.com/
https://www.facebook.com/lunugangabooks/
https://www.instagram.com/lunuganga_books/?hl=ja
https://twitter.com/lunugangabooks

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第9回 藤井路夫 油絵展 @ 阪急うめだ本店 7階 美術画廊

2019年3月13日から19日まで、阪急うめだ本店 7階 美術画廊にて開催されている、「第9回 藤井路夫 油絵展」を訪ねました。パンフレットから藤井さんの挨拶文を引用します。

 私事、十三才から油絵を描きはじめました。登下校の途にある琵琶湖へ続く水路を、慣れぬ油絵の具で無心に描いておりました。その頃に、想い体感した事が、私の絵造りの根底に生き続け。今の絵の礎となっています。今尚、同じ風景を、回帰するかの心境で描いております。
 近年のスケッチ取材では、南九州の神々しき自然の表情に心響き、渡欧先では、大陸の文化や風上に感銘を受け、それぞれに、心に刻まれた感動を絵画として具現化すべく、畏敬の想いを込めて描いてまいりました。
 今展では、旧車画や木造駅舎画から、高千穂の山間風景、スペイン西部・イタリア中部の心象風景など、新作三十点を出展いたします。
 作品より現地の風を感じ、共感いただければ、幸いです。
                           画 藤井路夫

繊細で、心温まる風景画(今回は猫の画や静物画もありました)に惹かれ、二年に一度のこの油絵展を心待ちにしていました。

藤井路夫さんの web site でも、画を見ることが出来ます。http://www.eonet.ne.jp/~kazenokioku/

マメな豆の話 世界の豆食文化をたずねて 吉田よし子著

マメな豆の話
世界の豆食文化をたずねて

吉田よし子著
角川ソフィア文庫
平成30年11月25日初版発行

本書の構成は、第一章 豆と人間、第ニ章 ダイスは東アジアの食文化の横綱、第三章 豆の王国インドとその周辺、第四章 新大陸からの贈り物、第五章 野菜と果物としての豆たち、終章 豆と人間の未来となっています。

南アジアの料理に関心がある人は、第三章から読み始めてしまうと思います。同章は穀類と豆を混ぜて栽培する技術(混作)の話から始まります。インドで栽培される豆の種類に話が進み、1980年代の統計ではヒヨコマメ、キマメ、リョクトウ、マッペ(ウラド)で全体の8割弱を占めると記されています。それぞれの豆の食べ方等について記述が続きます。

ヒヨコマメ Chickpea(Chana チャナ)については、その粉ベサンを使ったものとして、ナムキーン、パコラ、ムティア、ベサンカバブ、ブンディなどが挙げられており、ロティやプーリも小麦の一部をベサンに置き換えて作ることもあると記載されています。ミャンマーではヒヨコマメの「きなこ」もよく使われるとのことです。

キマメ Pigeon pea(Toor トゥール、Rahar ラハル)については、サンバー(サンバル)とラッサムについての説明が続き、丸ごとではなく二つに割る加工を施した豆の利用の方が盛んな事、その加工技術の問題点にも言及しています。

リョウクトウ Green Gram、Mung bean (Moong ムング)については、ケジャリの話から始まり、日本でなぜ春雨の材料やモヤシで終わってしまい、豆そのものが食べる習慣がないのか考察しています。

マッペ、ウラド(と本書では記されていますが、上の3つにあわせて和名で記すならケツルアズキ) Black Gram (Urad ウラド、Maas、Mas マス)については、イドゥリ、ドーサ、アッパム、イディアッパム、パコラについて記され、ワーダ、ワダについても詳しく記されています。パパダムにも話が及びます。

レンズマメ、ヒラマメ Lentil (Musuro ムスロ、マスール)については、1996年の統計では全世界の生産量の約30%がインドとのことです。皮が柔らかく、火も通りやすいので、皮付きでも洗ってすぐに煮ることが出来、煮えるのも早いと紹介されています。この豆を使ったプラオの作り方も書かれています。

ホースグラム Horse Gram については、ミャンマーでペピザと呼ばれ、ゆで汁でのポンイェージーと呼ぶ豆いろり(だしの素)作りにページが割かれています。インドでもゆで汁でサアールというスープを作ることも調べられていました。

ガラスマメ Grass Pea ラチルスピー もそれに含まれる神経毒によって下半身麻痺を惹起する「ラチルス症」が紹介されています。

同じダルでも言語によって表現、表記が異なるので、頭の整理をしながら読んでいくと、ダルへの理解の手助けになります。上述の豆の名の表記は、本書には無いが理解のために追加したものもあります。

 

ガンジスに還る Hotel Salvation Mukti Bhawan

テアトル梅田で「ガンジスに還る Hotel Salvation Mukti Bhawan」が上映されましたので、見に出かけました。聖地バラナシ Varanasi で死を迎えたいと、父親 Daya が言いだし、解脱の家 Hotel  Salvation Mukti Bhawan に行くことになり、息子 Rajiv が仕事に後ろ髪をひかれながらも付き添うお話です。娘の結婚問題での父娘関係なども含め、家族愛が描かれていますが、ヒンドゥの人々の生活が垣間見え、バラナシやガンジスも小綺麗に映し出されていました。

バラナシで約30年前に撮った、人々の沐浴の様子です。ガンジスの対岸は不浄の地とされ何もありません。

ガンジスに還る
Hotel Salvation
Mukti Bhawan

 映画『ガンジスに還る』公式サイト

『テアトル梅田』公式サイト

 

THE ASCENT OF THE EVEREST BY JOHN HUNT エベレスト初登頂 ジョン・ハント

THE ASCENT OF THE EVEREST
JOHN HUNT

エベレスト初登頂
ジョン・ハント著
吉田薫訳
エイアンドエフ
2016年8月10日初版発行

訳者あとがきにて、この本が出版されるに至った経緯を記されています。

一九五三年五月二十九日、エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイが、世界で初めてエベレスト登頂に成功し、遠征隊の隊長を務めたジョン・ハントが帰国後わずか一ヵ月で ”早く伝えてほしいという要望に駆り立てられるように” 書き上げた〈The Ascent of Everest〉は、早くもその年の秋にイギリスで刊行された。そして、日本でも登頂から一年を待たずに、邦訳(『エヴェレスト登頂』田辺主計・望月達夫訳、朝日新聞社刊)が出版されている。世界中の人々が当時、夢中になって読んだというその名著が、日本では長らく絶版となっていたため、このたび、あらためて二〇一三年版から翻訳出版する運びとなった。それが本書である。

遠征の準備から登頂、帰国に至るまでが詳細に記述されています。どれだけ、隊員とシェルパが一致協力して、ルート工作や上のキャンプへの荷上げなど献身的な労務を繰り返さねばならないか、組織としての見事なチームワークがよく読み取れます。著者は、最後の「回想」で

これまでの遠征隊は、到達した高度はともかく、それぞれが経験を積み重ねてきたことに意義があったのであり、この経験が相当な高さに積み上げられていなければ、この山の謎を解くことはできなかった。このピラミッドのように築き上げられてきた経験こそが、一切の鍵を握っていたのである。つまり、このピラミッドがある高さに達していなければ、どこの登山隊が全力であたっても登頂は果たせなかった。そう考えると、これまでの遠征隊は失敗したのではなく、むしろ前進したことになる。その前進を受けて、昨年の冬、われわれは再びエベレストに挑む準備に入った。その頃には、長年にわたって登山家を退けてきたあの山の ”守り” がどういうものなのか、以前にはわからなかったことがかなりわかっていた。あとはただそれを検討して、正しい結論を導き、エベレストと闘うために必要な物と人を備えた遠征隊を送り出すだけだったのである。われわれ、一九五三年エベレスト遠征隊は、先人たちとこの登頂の栄光を分かち合えることを誇りに思っている。

と、過去に敬意を払い、科学的な根拠をもとに周到な準備をすることの重要性を述べています。エドモンド・ヒラリーは「2001年版あとがき」で、

多くの優秀な遠征隊が登頂に失敗していたときに、われわれはなぜ成功できたのか。まず、われわれは現在の水準に照らせば特に優れていたわけではないにせよ、有能な登山家たった。組織は盤石で、適切かつ充分な装備を持っていた。生理学者は大量の水分を摂ることを力説し、われわれはそれに従った。それでもわたしの体重はベースーキャンプを設営したときから下山までに10キロ近く減っていた。エベレストの頂上に達して生き延びることが果たして人間の力で可能かどうかは、生理学者にもわかっていなかったので、それもわれわれが乗り越えなくてはならない壁だった。

 われわれは確かに健康で、強い意欲をもっていた。われわれの酸素補給器は不安定だったが、充分に役に立った。そして、ちょうどよいときに天候に恵まれた。つまり、成功はさまざまな状況が重なった結果だったのた。わたしは、ある意味で、エベレストは登られるのを待っていたような気がしている。そして、タイミングよくそれができる用意があったのが、われわれだったのだ。

と、それまでに積み重ねられた高所の生理学・医学を念頭においた準備に言及しています。本書の資料として、「装備」「酸素」「食事」「生理学と医学」の各項目が詳細に解説されています。

某「登山家」がエベレストで遭難されたとのニュースを目にして、発売当初に既に読んでいた本書を改めて読み直してみました。「有能な登山家」でさえも、シェルパや隊員全体の協力が不可欠な世界としか思えないエベレストで、「単独」を標榜することに拘らざるを得なかったことが悲劇の始まりだったのでしょうか。

The Himalayan Times の記事を読むと悲しくなります。

According to Tikaram Gurung, Managing Director at Bochi Bochi Treks, Kuriki along with four Sherpa guides had headed to the higher camps to make the final summit push on Mt Everest.
略)
Kuriki reportedly wanted to make a solo attempt on Mt Everest without using Sherpa support and bottled oxygen this season.

ネパールではエベレストを含む山々での「単独」登山は、既に政府によって禁止されていたはずです。

One of the major changes in the regulation is the mandatory provision of taking guides while climbing the mountains, including the world’s highest peak. “From now on, foreign climbers will be banned from making a solo attempt on Mt Everest,” said Neupane. It will ensure foreign climbers are in safe hands of Nepali high-altitude guides or climbers. Besides, it also means more jobs for Nepalis, said government officials. With the rise in the number of solo climbers on Mt Everest, the number of accidents has also increased in recent times. Vladimir Strba, 49-year-old Slovakian climber, and Swiss alpinist Ueli Steck died on Everest while making a solo climb this spring season (April-May).

http://kathmandupost.ekantipur.com/news/2017-12-29/govt-comes-up-with-stringent-safety-rules.html

 

現代ネパールの政治と社会ー民主化とマオイストの影響の拡大(明石書店)

現代ネパールの政治と社会
民主化とマオイストの影響の拡大

Politics and Society in Modern Nepal: Democratication and the Expansion of the Maoists’ Influence.

南 真木人、石井 溥 編集
明石書店
2015年3月31日初版第1刷発行

ひょんなことから国立民族学博物館の研究者の方と食事で同席させて頂き、これも何かのご縁かと、久しぶりに万博記念公園にある同館を訪れてみました。博物館、美術館を訪れると、Book Storeでついつい時間を費やしてしまいます。この時も数冊本を購入しました。その中の1冊です。

「はじめに」として、以下の様に本書は始まっています。

本書は近年のネパールの政治と社会を主題とし、ネパール共産党(毛沢東派)(以ド「マオイスト」と省略)の武装闘争とそこから拡大した内戦、および、それ以後の政治の表舞台へのマオイストの登場の時期に注目するものである。マオイストが力を得た経過・理由、その思想などを把握することは、今日のネパールとその行方を理解するうえで重要であるが、これは、それにできるだけ接近するために行われた国立民族学博物館での共同研究の成果の一部である。 

内容の概略については

一~三章、および七章は、それぞれ異なる面からマオイストの動きとその影響を論じたものである。四~六章では、内戦の時期を含めつつ特定の地域やグループに焦点をあててネパール社会の変化と人々の行動を分析する。八~十章は、マオイストや民族・地域に注目しつつ、内戦後はじめての選挙(○八年)をそれぞれ異なる視角から扱っており、十一章は近年のネパール社会を把捉するために重要と考えられるジェンダーに関わる問題を論じている。

と書かれています。

中学校時代に英語を教えて下さった先生が、ネパールに渡り障がい児教育に尽力されていた時期が、丁度この時期と重なります。異なる宗教ゆえに、マオイストから殺害予告も出されたり、カトマンズの教会が爆破された知らせも伝わってきました→BBC News “Church in Nepal hit by explosion”。その顛末の一部は「大木神父奮戦記」にも記載されています。遠い国、日本からみると、マオイストの過激な行動だけが印象に残ったものでした。しかし、それだけではネパールの人々が受け入れるはずもなく、

マオイストは暴力や脅迫だけではなく、歌や踊りや芝居を通じた宣伝にも力を入れていた。

とある様に、従来のネパールの社会には無かった共産主義的な思想の浸透手法も用いられました。

本書は、異なる視点からマオイストに焦点を当てながらも、当時の特に田舎のネパールの様相が、フィールドワークの成果として描き出されています。マオイストと政府軍の板挟みとなり、付かず離れずの態度を取らざるを得なかった人々の実態も窺い知れます。同時に、マオイストが持ち合わせ、それらの人々に足らなかったものも浮き彫りにしています。

こうしてみると、マオイストがマガル人の村にもたらしたものは、論理的に話す、あるいは書き留めるといった広義のリテラシーと、権利や公正、正義を追求するといった「近代」の価値観そのものであった。

その価値観に、人々を目覚めさせた事も、マオイストの功績なのかも知れません。

今回の選挙におけるネパール全体でのマオイストの勝利は、一九九〇年の民主化以後、人権意識や正義の拡大という近代化が確実に進展した証とも読みとれるだろう。これまで社会的に抑圧され、政治的な権利を奪われてきた民族やグリッド、女性のあいだにも「開発」や教育が普及したからこそ、近代化としてのマオイズムが受け容れられ、これほどまでに支持者を増やしたと逆説的に推論できるのである。

あとがきで、

本書はネパールのマオイストが反政府武装闘争を繰り広げた「マオイスト運動」期と二〇〇六年に政党に戻り、政治の表舞台に登場した「マオイスト政治」期を取り上げ、現代ネパールの政治と社会を多面的に理解しようとする試みである。いずれの論考もマオイストの運動や政治を前景ないしは後景に置き、体制が変わる激動のネパールの諸相を描写しているが、伝えきれていないものがあるとしたらそれは、論文という形ではなかなか表現できない、人民戦争期の張り詰めた空気であっただろう

と書かれている様に「ネパールの諸相」を、少しばかり覗くことが出来ます。

厭戦気分の高まりと平和を願う気運は、第一回制憲議会選挙前、多くの人に「マオイストを二度とジャングルに戻らせてはいけない。そのためには選挙で彼らにある程度勝たせなければならない」という考えを抱かせた。だからといって、自分の一票を意に染まないマオイストに投じた人が多かったとは思えないが、選挙後にはマオイストの勝利を認めたくない人々を中心に、そうした動機とその元にある恐怖が制憲議会選挙におけるマオイストの勝因であったと主張された。マオイストを捉える人々の意識についていえば、マオイスト白身もそうであったが、誰もが情勢を見誤ってばかりだったのである。本書でも明らかになったように、多様な地域や属性の人々の異なる意識や対応が、状況の全体を掌握することを難しくさせてきたといえる。その意味で本書がそうした見誤りを少しでも是正することにつながればと自戒を込めて願う。

と最後に結んでおられます。

国立民族学博物館の web siteにも、「マオイスト運動の台頭と変動するネパール」と題して研究プロジェクトの紹介がされています。