JUKE BOX HERO Lou Gramm

JUKE BOX HERO

My Five Decades in Rock ‘n’ Roll

Lou Gramm with Scott Pitoniak
TRIUMPH BOOKS

脳腫瘍を克服した元ForeignerのボーカルLou Grammが、2013年44th annual Songwriters Hall of Fame Award Ceremonyにおいて、かつて袂を分かったMick Jonesと’I Want To Know What Love Is’を披露した時の映像は、感激のあまり何度も再生して繰り返し見ました。Foreignerの公式site、HIGHLIGHTED ARTICLE: Mick Jones and Lou Gramm Inducted into the Songwriters Hall Of Fame 06/14/2013 にもupされています。

更には噂されていたForeinerの40th anniversary tourへの参加が2017年7月20日に実現し、その映像もForeignerの公式site、HIGHLIGHTED ARTICLE: Foreigner Reunites with Original Members Lou Gramm, Al Greenwood and Ian McDonald for First Time in 37 Years 07/21/2017 で見ることが出来、また感慨に浸りました。

Foreigner reunited with three key former members for the first time since 1980 as Lou Gramm, Al Greenwood and Ian McDonald joined the group onstage Thursday during a concert at Jones Beach, New York.

Gramm, who fronted Foreigner from their inception in 1976 until 2003, sang lead with the band for the first time in 14 years, while multi-instrumentalist McDonald and keyboardist Greenwood, both founding members of Foreigner, last performed with the group in 1980.

Together again after 37 years, the reunited iteration of Foreigner performed three tracks: “Long, Long Way From Home,” “I Want to Know What Love Is” and “Hot Blooded.”

ヒット曲の名を冠した、頭書の本「JUKE BOX HERO」は、そのLou Grammnの物語をScott Pitoniakと自伝の形でまとめた本です。だいぶ前に買って読んだ本でしたが、今回の’Reunion’を機に読み直しました。紀伊國屋書店web storeで、今でも購入できるようです。

第8回藤井路夫油絵展@阪急うめだ本店7階美術画廊

阪急うめだ本店7階の美術画廊で3月15日から21日まで開催の「第8回 藤井路夫 油絵展」に出かけてきました。前々回に初めて訪れ、前回、今回と3回目の鑑賞です。藤井路夫さんは郷愁を誘う風景を細かな描写で表現されている滋賀県在住の洋画家さんです。自身の藤井路夫ホームページで、今回のタイトル「原点回帰」についても述べられています。

阪急うめだ本店のweb siteでは以下の様に紹介されています。

道草をし、風に吹かれ歩いた帰り道。幼き日の思い出がよみがえるような、ノスタルジックな風景を精緻に描いています。今展では旅先の風景や地元の水辺、アトリエの猫などを題材にした新作をご紹介します。

THE BOYS IN THE BOAT ヒトラーのオリンピックに挑んだ若者たち

2020年東京オリンピックのボート、カヌーの開催場問題が、毎日の様にニュースになっていました。残念ながら、ボート(漕艇、rowing)の競技自体に関心のある日本人は多くない中、ニュースの話題性が専ら「小池さんvs森さん」ばかりに集中し、真の競技場問題と大きく乖離していたのが残念でした。注目を集めたせっかくのこの機会に、ボート競技の素晴らしさなども併せてアピールする度量が小池百合子都知事にあればと思ったのは私だけではないと思います。

ボート競技の美しさを、本文からの抜粋で腰巻に記載しています。

漕手全員がたがいを鏡に映したように完全に同調し、端から端まで一糸乱れぬ動きができたとき、ボートはまるで解き放たれたように、優美に、すべるように進む。その瞬間、初めてボートは漕手たちの一部となり、それ自体が意志をもつかのように動きはじめる。苦痛は歓喜に変わり、オールのひと漕ぎひと漕ぎは一種の完璧な言語になる。すばらしいスイングは、詩のようにさえ感じられる。

 

THE BOYS IN THE BOAT

Nine Americans and their epic quest for Gold at the 1936 Berlin Olympics

Daniel James Brown

ヒトラーのオリンピックに挑んだ若者たち

ボートに託した夢

森内薫訳
早川書房 ¥3000+税
2014年9月25日 初版発行

「訳者あとがき」には、本書の意味が上手く記されています。

本書の冒頭を読めばわかる通り、著者のブラウンがこの物語を書くことになったのは、ある偶然によります。ホスピスケアを受けていた主人公ジョー・ランツと知遇を得たブラウンは、ボートの話に心を惹かれ、それをテーマに本を書くことを思い立ちます。ジョーの死後はその娘やチームメイトの家族に幾度も取材を重ね、古い新聞や資料、コーチの日誌や手記、メンバー数人がつけていた日記などを綿密に検証し、ほぼ当時のまま残されているベルリンの競技場をその目で見、五年近い幾月をかけて本書は書き上げられました。あえて分類するなら<スポーツ小説>になるだろうこの物語は、主人公ジョー青年の成長の物語でもあり、大恐慌当時のアメリカを描いた歴史物語でもあり、そしてヒトラーのオリンピックを描いた物語でもあります。

アメリカで原書が2013年6月に出版され、2014年6月にはニューヨーク・タイムズ・ベストセラーのノンフィクション第一位(ペーパーバック部門)に登り詰めたとのことです。日本人があまり興味を持たない分野、付記も含めると600ページを超えるボリュームという点もあり、日本では販売数があまり期待できない中、邦題を付けるにも苦労されたとは思います。まず、多くのアメリカ人が買って読もうとした事にも驚きましたが、確かに読み応えのある本で、漕艇が好きな人にはたまらない本です。

訳者が最後に記しています。

2020年の東京オリンピックで、強豪クルーの戦いをこの目で見られることを願って

野口英世は黄熱病を発見したのか

ふとした機会に野口英世に関する本を読み、その関連でもう1冊の本を読みました。「STAP細胞」が話題になった記憶もまだ新しい頃でしたので、科学で何かを成し遂げることの危うさはいつの時代でも同じだという感想を持ちました。野口英世への評価として、否定的な面もあれば肯定的な面も記されていますが、欲とか金銭といった泥臭い面の彼のエピソードを読むと、子供達に偉人として紹介される聖人君子の様なイメージの野口英世との乖離に戸惑います。最後のアフリカへの出発と彼の死について、なにかもやもやとした気持ちだけが、読んだ後に残りました。野口英世は何をした人かと息子に尋ねたことがあります。「黄熱病を発見した人」と、答えてくれました。少し違うんだがとも言ってやれず、大人になって興味が向いたらこれらの本を読んでくれと思いました。

黎明期のウイルス研究

野口英世と同時代の研究者たちの苦闘

鳥山重光 著
創風社 ¥2000(税別)
2008年10月15日 第1刷発行

 著者は植物ウイルス学を専門にする農学博士であり、専門家の立場を踏まえて「初期の濾過性ウイルスの研究の実情を踏まえて、野口英世の業績を批判的に検討し、そのままの姿を見ようとしたものである。」とのことです。また、「野口の業績を全面否定することへの警鐘」としての「一植物ウイルス研究者の試みである。」とも著者自身が述べています。

第1部で「欧米と日本における黎明期のウイルス研究」と題し、ウイルスの発見や初期の研究が記されています。第2部で「野口英世とロックフェラー研究所」と題し、野口英世の業績に関する記述に多くの頁を割いています。野口英世が亡くなった時のロックフェラー医学研究所を代表する3名の追悼の辞や、没後30年を経て書かれたポール・クラークの野口像などから読み取れる、著者の解説による示唆に富んだ文章が多く記されています。

締めくくりには、プレセットの著書について、「しかし、残念ながら、彼女が発見したものは、あるがままの野口英世であり、新たな発見に失敗した。」「プレセットの失敗は、1910年ごろから1935年代の世界の研究者たちの濾過性ウイルス研究を全く無視した調査だったことに原因があるのではなかろうか。」と述べています。

プレセットの著書を読む前に一度読み、読んだ後にもう一度読み直してみました。誰も追試(追加実験で結果の再現を確認すること)ができない野口の培養技術をも、全く否定するのではなく、後世にも影響を残していることの肯定的な評価もしています。一方で、厳密ではない当時の論文の査読システム(論文が掲載に値するかの評価判断システム)についての否定的な評価をしています。肯定できる面と、否定的な面の、両者を上手くバランスをとって書かれているようにも思えます。

Noguchi and His Patrons

野口英世

Isabel R. Plesset 著
中井久夫、枡矢好弘 訳
星和書店 ¥3900(税別)
1987年2月26日 第1刷発行

この本は野口英世を否定的に捉えている本であるとの評価もあります。淡々と、野口英世自身の書簡や周囲の人の発言、行動などを並べてあるようにも思えます。

アメリカやヨーロッパでの、そして中南米やアフリカでの、当時の研究生活の実際が窺い知れる内容です。黙々と実験に取り組んではいるが、彼の研究室そのものや、補助スタッフなど研究の体制は粗雑といった面や、精一杯虚勢もはったようなエピソードや書簡も数々記されています。他の者が追加実験を行って、野口英世の出した結論を確認しようとするも、どうしても再現できない論文の数々。彼はテクニックの問題と無視しますが、現代の科学の世界では論文として通用しないことは明らかです。一方、当時は無視されたが、後世になって電子顕微鏡が出てきて真実だとわかった彼の推察なども紹介されています。

 

大木神父奮戦記

学生の頃ネパールを旅したかった理由の一つが大木神父の存在でした。ネパールへ渡られ、その後、障がい児教育の施設をポカラで運営されるようになったと耳にしていました。ポカラとはどんな場所なのか、見に行きたかったのでした。その大木神父のネパールでの経緯などを綴った本が出版されています。

大木神父奮戦記

大木章次郎語り下ろし製作委員会
小学館スクウェア ¥1428(税別)
2011年7月15日第1刷発行

イエズス会の大木章次郎神父が1977年ネパールに渡り、1979年からポカラで障がい児教育センターであるシシュ・ビカス・ケンドラを、小さな平屋の家を借りて試行錯誤しながら始められました。ネパールはヒンズー教の国であり、それまでは、障がい者というのは前世の罪の結果生まれてきた隠すべき者というように考えられていました。その様な価値観を持つ人々が多いネパールで、障がい児への教育に取り組まれたことは、並大抵の苦労ではなかったはずです。しかも、政府はキリスト教を非常に警戒しており、宣教をしようとしているのではないかと疑ってキリスト教の団体には圧力をかけていました。

江口美由紀さん「大木神父からの聞き書き」の形で原稿をまとめられた本です。ビザの問題、資金の問題、政府からの圧力のエピソード、マオイスト(共産党毛沢東主義派)からの殺人予告などを語られておられます。 ネパールの政情はとても不安定です。大木神父に対するマオイストからの殺人予告だけではなく、実際に首都カトマンズではカトリック教会の爆破事件も起きたりしました。この本で語られている以上に、ヒンズー教とキリスト教の間には様々な葛藤があるようで、ご苦労が行間からも読めます。 日本では、大木神父の窮状を経済面からでも支援しようと、倉光誠一氏「ポカラの会」を立ち上げられ、集まった寄付を神父に送り支援される様になったのです。その後、曾野綾子さん主宰される海外法人宣教者活動援助後援会も、施設の拡張に援助を申し出られたとのことです。さらに、スタッフが独立して、シシュ・ビカス・ケンドラを卒業した後を受け入れる障がい者施設、セワ・ケンドラも誕生しました。こちらにも日本人のサポーターグループが有り支援をされているとのことです。また、子供がいるために母親が働きに出られない貧しい母子家庭の子供を、母親が働いている間預かるジョティー・ケンドラも、経営に必要な資金をポカラの会が出すことで始められたそうです。こちらではシスター川岡が奮闘されておられました。さらに、貧しい人たちの診療を自分たちでしたいと、あるネパール人の青年がシッダールタ・クラブというNPOを作り、会費を集め、ボランティアの医師に診療を頼むようになりました。しかし、金銭面の問題から、シッダールタ・クラブもポカラの会の援助無しでは運営できない状況もあったようです。神父の意思を継いで、ポカラにヒマラヤの見える教会を建てる計画も、教会建設支援の会が立ちあげられ、支援を集められました。神父は2009年イエズス会から帰国指示が出され、後進に道を譲って帰国されました。ポカラの会もその趣旨を継続するため、神父の帰国を機に、「新ポカラの会」として再出発されました。 「ポカラの会」「新ポカラの会」は倉光誠一氏が、ご高齢にもかかわらず、私費でネパールに行き来されて支えて来られました。web siteも個人で立ち上げておられましたが、同氏は2014年突然の病でご帰天され、大木神父も2015年ご帰天されました。その意思は、「ニューポカラの会」に引き継がれています。