ナマステの国の神々 ―ネパールの赤い世界 川口敏彦著 叢文社

ナマステの国の神々 ―ネパールの赤い世界

川口敏彦著
叢文社
2001年10月17日 初版第1刷

著者は、『はじめに―「赤の世界」』で、

一歩この盆地に足を踏み入れると、この地域が全アジアから見てもきわめて特殊な地域とすぐに気づくに違いない。そこには神々が住んでいるのだ。赤く染まった神の居場所は、街のいたるところにある。「カトマンドゥ盆地は赤であふれている」という印象は、つまるところ、神が街の中にいっぱいいるということなのだ。

と記しているように、日常生活に溶け込んだ街中の神の写真が多く載せられています。写真を眺めているだけでカトマンドゥ盆地の街を散策している気分です。バクタプルで出会ったというヒンドゥの神に詳しいガイド、パサンタや、街で出会った人々の説明が神々の解説となっています。宗教と生活が一体となったネパールの人々の暮らしを理解するには、神々の意味を理解することが手始めになります。

『頭蓋骨のお椀』の章で、著者は、ダルバール広場の破壊神シヴァ神の化身である、カーラ・バイラヴ像について、

私が持っている常識では、神が持っている頭蓋骨のお椀にお供え物を置いていく人々のことをどうしても理解できそうになかった。

との感想を記しています。シヴァ神が破壊と共に再生、生殖、時には病を治す神でもあり、人々の人気を集め、マハー・シヴァラートリーでその威光を讃えられていることなど、他の宗教を知ることは難しいことです。30数年前、初めてネパールを訪れた私は何も知りませんでした。

写真は、2017年に訪れた際に撮った、カーラ・バイラヴ像です。

ミールス ダルバート ライス&カリー 南インド、ネパール、スリランカ 3つの地域の美味しいカレー

ミールス ダルバート ライス&カリー
南インド、ネパール、スリランカ 3つの地域の美味しいカレー

小此木大、本田遼、濱田祐介 著
LLC インセクツ 発行
2020年7月10日 初版第1刷発行

京都のインド食堂「タルカ」の小此木大さん、大阪のネパール料理店「ダルバート食堂」の本田遼さん、神戸のスリランカ料理店「カラピンチャ」の濱田祐介さんの共著の1冊が発行されました。はじめにで濱田祐介さんが記されています。

3人が愛してやまない、南インド、ネパール、スリランカの料理をご紹介します。その中で、最初に3つお伝えしたいことがあります。それは「地域による違い」「組み合わせの楽しさ」「料理の自由さ」です。
(中略)“主食は米”、“野菜を多用”、“スパイスで香り豊かに仕上げる”という共通点を持ち見た目は似ているものの、3地域には気候、風土、民族の特性、宗教、歴史があり、そこで育まれた食文化は似て非なるものです。

さらに

3地域の料理を知ると同時に、各地域の食文化へのガイダンスとなれば幸いです。

と続けておられます。カラピンチャさんのブログで紹介されるスリランカの日々も、食事を通して、文化、宗教についても触れておられ、濱田さんらしい巻頭の言葉です。

阪急神戸線王子公園駅近くのお店で頂ける美味しい料理は
→「カラピンチャ Karapincha(神戸市)」

カラピンチャ Karapincha

神戸市灘区王寺町1-2-13
http://karapincha.jp/blog/
https://twitter.com/karapinchajp
https://ja-jp.facebook.com/karapincha.jp/

大阪メトロ谷町線谷町四丁目駅からも近い、お店で頂ける美味しい料理の数々は
→「ダルバート食堂(大阪市中央区)」

ダルバート食堂

大阪市中央区内久宝寺町3-3-16
http://dalbhat-shokudo.com/
https://twitter.com/dalbhat_nepal
https://www.instagram.com/dalbhat_shokudo/

 

 

 

 

 

ダルバートとネパール料理 - ネパールカレーのテクニックとレシピ、食文化 - 本田遼 著 柴田書店

ダルバートとネパール料理
- ネパールカレーのテクニックとレシピ、食文化

本田遼 著
柴田書店
2020年6月30日初版発行

ダルバートに関する本を出したいことや、ダルバート食堂、スパイス堂に続く出店の構想を語っておられた「遼さん」が、着々とその夢を実現されています。まず前者の「ダルバートとネパール料理 - ネパールカレーのテクニックとレシピ、食文化」が 6月24日に発売開始となり、後者は東京、豪徳寺に「OLD NEPAL」の開店準備が進んでいる様です。店舗で先行販売とのことで、ダルバート食堂へ伺い購入しました。

本書の「はじめに」で記されている、

ネパール料理はインド料理やスパイスカレーにくらべると使うスパイスの量がかなり少なく、ほとんどの料理はターメリック、クミン、チリ、フェネグリークの 4種のスパイスのうち、いくつかを組み合わせてつくるというシンプルな味付けです。素材の味を引き立てて生かすところは和食と通じるものがあり、そのやさしい味わいは日本人にも親しみやすいように思います。

は、最近ダルバートを何度か自分で作ってみた際に同じ様に感じました。上手くネパール料理を表現されています。

ダルバート食堂

大阪市中央区内久宝寺町3-3-16
http://dalbhat-shokudo.com/
https://twitter.com/dalbhat_nepal
https://www.instagram.com/dalbhat_shokudo/

スパイス堂

大阪市中央区谷町6丁目13-6
https://twitter.com/osaka_spice_do
https://www.instagram.com/spice_do/
https://www.facebook.com/spicedou/

OLD NEPAL TOKYO

東京都世田谷区豪徳寺 1丁目 42-11
https://www.instagram.com/oldnepal_tokyo/?hl=ja

 

 

 

 

 

 

ダルバートから考えるネパールの風土 森本泉著 モンスーンアジアのフードと風土 横山智 荒木一視 松本淳 編集 明石書店

ダルバートから考えるネパールの風土
森本泉著

モンスーンアジアのフードと風土
横山智 / 荒木一視 / 松本淳 編集

明石書店 2012年9月10日 初版第1刷発行

休日は外出を控え、本を読みましょう。
ダルバートに関する日本語で書かれた総説です。

ネパールの町中の大衆食堂に入って「カナ khana (食事)」を頼むと、ダルバート dal bhat が出てくる。このような食堂にはメニューが無い。ダルバートとは文字通り訳せば豆汁(ダル)ご飯(バート)である。副食としてジャガイモや野菜を油で炒めて塩と香辛料で味付けしたタルカリ tarkari(おかず)や、酸味や辛味の効いたアチャール acar(チャツネ)が添えられ、これらが一つのプレートに盛りつけられる。ダルバートを頼むと「マス masu(肉)を食べるか」と尋ねられ、各店で提供可能な肉(山羊や鶏、水牛等)の種類が提示される。その中から好みの肉を選ぶと、肉のおかずがダルバートに加わる。多様な自然環境が広がるネパールで広く親しまれている食事が、このダルバートである。

という『1. はじめに』の文章から始まり、

「肉を食べるか」という問いは、2008年までヒンドゥー王国を謳ってきたネパールでは、個人の好みや健康への配慮というより、文化的規範を問うことを意味する。

と続きます。『2. ダルバート』ではダルバートの実際を紹介し、『3. ダルバートからみた地域差』では、ネパールは南部を除いては平野が少なく土地生産性が低く、かつ、都市部を除く地域での食生活は食材の流通環境に左右されると指摘しています。また購買力の問題もあり、人々は集落周辺の農耕地や、森林、川に、生活の糧を求め、自然環境に由来する季節性や地域性が維持されてきたと考察しています。『4. 食文化をめぐる社会的影響』では、「肉食に関する禁忌・制限」として、20世紀後半までヒンドゥー的ナショナリズムが進められていたことを紹介し

「肉を食べるか」と問うことは、ヒンドゥ―であるのか、カースト的階位が上なのか、あるいは高位カーストでもヒンドゥー的な慣習にどの程度準拠しているのか、個人の文化的規範を問うことに繋がるのである。

と、記し、さらに

1996年からマオイスト(現ネパール共産党統一毛沢東主義派)が政府に対して武装闘争を展開する過程で、世俗国家の実現を目的の一つに掲げて宗教を否定し、ヒンドゥー教が神とする牛の肉を兵士が食べていたことが話題となった。

とつなげています。『5. おわりにかえて』では

ネパールのカナ(食事)として親しまれるようになったダルバートは、今度は外国のネパール人コミュニティを通してネパールのカナとしてグローバル化している。しかしながら、私たちに本をはじめ南アジア以外の地域で接するネパール料理は、多くの場合はインド料理の雰囲気をまとうエスニック・フードとしてのネパール料理である。

と2011年当時の、日本でのダルバート、ネパール料理の状況が記されています。それから約10年、新大久保や名古屋、福岡でのネパール人コミニュティが膨らみ、ダルバートが彼らの中で普遍化するとは、著者も予想していなかったのかもしれません。

参考までに

→「現代ネパールの政治と社会 民主化とマオイストの影響の拡大 南真木人、石井溥 編集 明石書店」

→「ネパールにおける豚肉事情」

→「大阪、兵庫、京都、奈良で食べるダルバート Dal bhat」

写真は Kathmandu 郊外の市場のじゃが芋です。

THE ASCENT OF THE EVEREST BY JOHN HUNT エベレスト初登頂 ジョン・ハント

THE ASCENT OF THE EVEREST
JOHN HUNT

エベレスト初登頂
ジョン・ハント著
吉田薫訳
エイアンドエフ
2016年8月10日初版発行

訳者あとがきにて、この本が出版されるに至った経緯を記されています。

一九五三年五月二十九日、エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイが、世界で初めてエベレスト登頂に成功し、遠征隊の隊長を務めたジョン・ハントが帰国後わずか一ヵ月で ”早く伝えてほしいという要望に駆り立てられるように” 書き上げた〈The Ascent of Everest〉は、早くもその年の秋にイギリスで刊行された。そして、日本でも登頂から一年を待たずに、邦訳(『エヴェレスト登頂』田辺主計・望月達夫訳、朝日新聞社刊)が出版されている。世界中の人々が当時、夢中になって読んだというその名著が、日本では長らく絶版となっていたため、このたび、あらためて二〇一三年版から翻訳出版する運びとなった。それが本書である。

遠征の準備から登頂、帰国に至るまでが詳細に記述されています。どれだけ、隊員とシェルパが一致協力して、ルート工作や上のキャンプへの荷上げなど献身的な労務を繰り返さねばならないか、組織としての見事なチームワークがよく読み取れます。著者は、最後の「回想」で

これまでの遠征隊は、到達した高度はともかく、それぞれが経験を積み重ねてきたことに意義があったのであり、この経験が相当な高さに積み上げられていなければ、この山の謎を解くことはできなかった。このピラミッドのように築き上げられてきた経験こそが、一切の鍵を握っていたのである。つまり、このピラミッドがある高さに達していなければ、どこの登山隊が全力であたっても登頂は果たせなかった。そう考えると、これまでの遠征隊は失敗したのではなく、むしろ前進したことになる。その前進を受けて、昨年の冬、われわれは再びエベレストに挑む準備に入った。その頃には、長年にわたって登山家を退けてきたあの山の ”守り” がどういうものなのか、以前にはわからなかったことがかなりわかっていた。あとはただそれを検討して、正しい結論を導き、エベレストと闘うために必要な物と人を備えた遠征隊を送り出すだけだったのである。われわれ、一九五三年エベレスト遠征隊は、先人たちとこの登頂の栄光を分かち合えることを誇りに思っている。

と、過去に敬意を払い、科学的な根拠をもとに周到な準備をすることの重要性を述べています。エドモンド・ヒラリーは「2001年版あとがき」で、

多くの優秀な遠征隊が登頂に失敗していたときに、われわれはなぜ成功できたのか。まず、われわれは現在の水準に照らせば特に優れていたわけではないにせよ、有能な登山家たった。組織は盤石で、適切かつ充分な装備を持っていた。生理学者は大量の水分を摂ることを力説し、われわれはそれに従った。それでもわたしの体重はベースーキャンプを設営したときから下山までに10キロ近く減っていた。エベレストの頂上に達して生き延びることが果たして人間の力で可能かどうかは、生理学者にもわかっていなかったので、それもわれわれが乗り越えなくてはならない壁だった。

 われわれは確かに健康で、強い意欲をもっていた。われわれの酸素補給器は不安定だったが、充分に役に立った。そして、ちょうどよいときに天候に恵まれた。つまり、成功はさまざまな状況が重なった結果だったのた。わたしは、ある意味で、エベレストは登られるのを待っていたような気がしている。そして、タイミングよくそれができる用意があったのが、われわれだったのだ。

と、それまでに積み重ねられた高所の生理学・医学を念頭においた準備に言及しています。本書の資料として、「装備」「酸素」「食事」「生理学と医学」の各項目が詳細に解説されています。

某「登山家」がエベレストで遭難されたとのニュースを目にして、発売当初に既に読んでいた本書を改めて読み直してみました。「有能な登山家」でさえも、シェルパや隊員全体の協力が不可欠な世界としか思えないエベレストで、「単独」を標榜することに拘らざるを得なかったことが悲劇の始まりだったのでしょうか。

The Himalayan Times の記事を読むと悲しくなります。

According to Tikaram Gurung, Managing Director at Bochi Bochi Treks, Kuriki along with four Sherpa guides had headed to the higher camps to make the final summit push on Mt Everest.
略)
Kuriki reportedly wanted to make a solo attempt on Mt Everest without using Sherpa support and bottled oxygen this season.

ネパールではエベレストを含む山々での「単独」登山は、既に政府によって禁止されていたはずです。

One of the major changes in the regulation is the mandatory provision of taking guides while climbing the mountains, including the world’s highest peak. “From now on, foreign climbers will be banned from making a solo attempt on Mt Everest,” said Neupane. It will ensure foreign climbers are in safe hands of Nepali high-altitude guides or climbers. Besides, it also means more jobs for Nepalis, said government officials. With the rise in the number of solo climbers on Mt Everest, the number of accidents has also increased in recent times. Vladimir Strba, 49-year-old Slovakian climber, and Swiss alpinist Ueli Steck died on Everest while making a solo climb this spring season (April-May).

http://kathmandupost.ekantipur.com/news/2017-12-29/govt-comes-up-with-stringent-safety-rules.html

 

現代ネパールの政治と社会ー民主化とマオイストの影響の拡大(明石書店)

現代ネパールの政治と社会
民主化とマオイストの影響の拡大

Politics and Society in Modern Nepal: Democratication and the Expansion of the Maoists’ Influence.

南 真木人、石井 溥 編集
明石書店
2015年3月31日初版第1刷発行

ひょんなことから国立民族学博物館の研究者の方と食事で同席させて頂き、これも何かのご縁かと、久しぶりに万博記念公園にある同館を訪れてみました。博物館、美術館を訪れると、Book Storeでついつい時間を費やしてしまいます。この時も数冊本を購入しました。その中の1冊です。

「はじめに」として、以下の様に本書は始まっています。

本書は近年のネパールの政治と社会を主題とし、ネパール共産党(毛沢東派)(以ド「マオイスト」と省略)の武装闘争とそこから拡大した内戦、および、それ以後の政治の表舞台へのマオイストの登場の時期に注目するものである。マオイストが力を得た経過・理由、その思想などを把握することは、今日のネパールとその行方を理解するうえで重要であるが、これは、それにできるだけ接近するために行われた国立民族学博物館での共同研究の成果の一部である。 

内容の概略については

一~三章、および七章は、それぞれ異なる面からマオイストの動きとその影響を論じたものである。四~六章では、内戦の時期を含めつつ特定の地域やグループに焦点をあててネパール社会の変化と人々の行動を分析する。八~十章は、マオイストや民族・地域に注目しつつ、内戦後はじめての選挙(○八年)をそれぞれ異なる視角から扱っており、十一章は近年のネパール社会を把捉するために重要と考えられるジェンダーに関わる問題を論じている。

と書かれています。

中学校時代に英語を教えて下さった先生が、ネパールに渡り障がい児教育に尽力されていた時期が、丁度この時期と重なります。異なる宗教ゆえに、マオイストから殺害予告も出されたり、カトマンズの教会が爆破された知らせも伝わってきました→BBC News “Church in Nepal hit by explosion”。その顛末の一部は「大木神父奮戦記」にも記載されています。遠い国、日本からみると、マオイストの過激な行動だけが印象に残ったものでした。しかし、それだけではネパールの人々が受け入れるはずもなく、

マオイストは暴力や脅迫だけではなく、歌や踊りや芝居を通じた宣伝にも力を入れていた。

とある様に、従来のネパールの社会には無かった共産主義的な思想の浸透手法も用いられました。

本書は、異なる視点からマオイストに焦点を当てながらも、当時の特に田舎のネパールの様相が、フィールドワークの成果として描き出されています。マオイストと政府軍の板挟みとなり、付かず離れずの態度を取らざるを得なかった人々の実態も窺い知れます。同時に、マオイストが持ち合わせ、それらの人々に足らなかったものも浮き彫りにしています。

こうしてみると、マオイストがマガル人の村にもたらしたものは、論理的に話す、あるいは書き留めるといった広義のリテラシーと、権利や公正、正義を追求するといった「近代」の価値観そのものであった。

その価値観に、人々を目覚めさせた事も、マオイストの功績なのかも知れません。

今回の選挙におけるネパール全体でのマオイストの勝利は、一九九〇年の民主化以後、人権意識や正義の拡大という近代化が確実に進展した証とも読みとれるだろう。これまで社会的に抑圧され、政治的な権利を奪われてきた民族やグリッド、女性のあいだにも「開発」や教育が普及したからこそ、近代化としてのマオイズムが受け容れられ、これほどまでに支持者を増やしたと逆説的に推論できるのである。

あとがきで、

本書はネパールのマオイストが反政府武装闘争を繰り広げた「マオイスト運動」期と二〇〇六年に政党に戻り、政治の表舞台に登場した「マオイスト政治」期を取り上げ、現代ネパールの政治と社会を多面的に理解しようとする試みである。いずれの論考もマオイストの運動や政治を前景ないしは後景に置き、体制が変わる激動のネパールの諸相を描写しているが、伝えきれていないものがあるとしたらそれは、論文という形ではなかなか表現できない、人民戦争期の張り詰めた空気であっただろう

と書かれている様に「ネパールの諸相」を、少しばかり覗くことが出来ます。

厭戦気分の高まりと平和を願う気運は、第一回制憲議会選挙前、多くの人に「マオイストを二度とジャングルに戻らせてはいけない。そのためには選挙で彼らにある程度勝たせなければならない」という考えを抱かせた。だからといって、自分の一票を意に染まないマオイストに投じた人が多かったとは思えないが、選挙後にはマオイストの勝利を認めたくない人々を中心に、そうした動機とその元にある恐怖が制憲議会選挙におけるマオイストの勝因であったと主張された。マオイストを捉える人々の意識についていえば、マオイスト白身もそうであったが、誰もが情勢を見誤ってばかりだったのである。本書でも明らかになったように、多様な地域や属性の人々の異なる意識や対応が、状況の全体を掌握することを難しくさせてきたといえる。その意味で本書がそうした見誤りを少しでも是正することにつながればと自戒を込めて願う。

と最後に結んでおられます。

国立民族学博物館の web siteにも、「マオイスト運動の台頭と変動するネパール」と題して研究プロジェクトの紹介がされています。

大木神父奮戦記

学生の頃ネパールを旅したかった理由の一つが大木神父の存在でした。ネパールへ渡られ、その後、障がい児教育の施設をポカラで運営されるようになったと耳にしていました。ポカラとはどんな場所なのか、見に行きたかったのでした。その大木神父のネパールでの経緯などを綴った本が出版されています。

大木神父奮戦記

大木章次郎語り下ろし製作委員会
小学館スクウェア ¥1428(税別)
2011年7月15日第1刷発行

イエズス会の大木章次郎神父が1977年ネパールに渡り、1979年からポカラで障がい児教育センターであるシシュ・ビカス・ケンドラを、小さな平屋の家を借りて試行錯誤しながら始められました。ネパールはヒンズー教の国であり、それまでは、障がい者というのは前世の罪の結果生まれてきた隠すべき者というように考えられていました。その様な価値観を持つ人々が多いネパールで、障がい児への教育に取り組まれたことは、並大抵の苦労ではなかったはずです。しかも、政府はキリスト教を非常に警戒しており、宣教をしようとしているのではないかと疑ってキリスト教の団体には圧力をかけていました。

江口美由紀さん「大木神父からの聞き書き」の形で原稿をまとめられた本です。ビザの問題、資金の問題、政府からの圧力のエピソード、マオイスト(共産党毛沢東主義派)からの殺人予告などを語られておられます。 ネパールの政情はとても不安定です。大木神父に対するマオイストからの殺人予告だけではなく、実際に首都カトマンズではカトリック教会の爆破事件も起きたりしました。この本で語られている以上に、ヒンズー教とキリスト教の間には様々な葛藤があるようで、ご苦労が行間からも読めます。 日本では、大木神父の窮状を経済面からでも支援しようと、倉光誠一氏「ポカラの会」を立ち上げられ、集まった寄付を神父に送り支援される様になったのです。その後、曾野綾子さん主宰される海外法人宣教者活動援助後援会も、施設の拡張に援助を申し出られたとのことです。さらに、スタッフが独立して、シシュ・ビカス・ケンドラを卒業した後を受け入れる障がい者施設、セワ・ケンドラも誕生しました。こちらにも日本人のサポーターグループが有り支援をされているとのことです。また、子供がいるために母親が働きに出られない貧しい母子家庭の子供を、母親が働いている間預かるジョティー・ケンドラも、経営に必要な資金をポカラの会が出すことで始められたそうです。こちらではシスター川岡が奮闘されておられました。さらに、貧しい人たちの診療を自分たちでしたいと、あるネパール人の青年がシッダールタ・クラブというNPOを作り、会費を集め、ボランティアの医師に診療を頼むようになりました。しかし、金銭面の問題から、シッダールタ・クラブもポカラの会の援助無しでは運営できない状況もあったようです。神父の意思を継いで、ポカラにヒマラヤの見える教会を建てる計画も、教会建設支援の会が立ちあげられ、支援を集められました。神父は2009年イエズス会から帰国指示が出され、後進に道を譲って帰国されました。ポカラの会もその趣旨を継続するため、神父の帰国を機に、「新ポカラの会」として再出発されました。 「ポカラの会」「新ポカラの会」は倉光誠一氏が、ご高齢にもかかわらず、私費でネパールに行き来されて支えて来られました。web siteも個人で立ち上げておられましたが、同氏は2014年突然の病でご帰天され、大木神父も2015年ご帰天されました。その意思は、「ニューポカラの会」に引き継がれています。