NFL観戦記 ニューヨークジャイアンツ vs ワシントンレッドスキンズ 2013

子供の頃、田舎の放送局でもNFL(National Football League)のダイジェストを放送していました。すぐにルールも覚えましたが、実際の試合を見たことはありませんでした。2年余り暮らしたロサンゼルス近郊には当時NFLのチームはなく、なかなか観戦の機会が訪れませんでした。今度は息子がNFLに興味を持つようになり、その頃にスーパーボウルを制したのがニューヨークジャイアンツでした。以来、彼はNFL、特にジャイアンツの熱心なファンとなり、勉強で記憶すべき物理の法則や、化学式よりも、他チームも含め全選手の名前を覚えることを優先するようになりました。

NFLシーズンは9月に始まり、年末か年始でレギュラーシーズンが終わり、以降は負けたら終わりのトーナメント、ポストシーズンに入ります。今年も、丁度今頃がその佳境です。日本から観戦に出かけるには、仕事を休んでまでは行けませんが、仕事納め以降の正月休み期間であれば何とかなります。

NFLのチケット購入

NFLの各チームにとって、レギュラーシーズンは16試合しかなく、ホームゲームとなるとわずか8試合しかありません。人気チームはシーズンチケットで完売となり、1試合ごとのチケットを購入するには、そのシーズンチケットを持っている人から買わねばなりません。チケット業者に依頼する方法もあるのでしょうが、各チームのweb siteからTicketmasterを介して購入することが出来る仕組みが確立されています。

NFL Ticket Exchange: Buy and Sell Giants Tickets
You can also buy and sell Giants tickets and parking passes with NFL Ticket Exchange at NFL.com powered by Ticketmaster. Buy tickets direct from season ticket holders and other fans or sell your tickets for games you are unable to attend. For more details, visit the NFL Ticket Exchange.

座席の位置、どのセクションの何列目のどの番号の座席かも知ることが出来て、売り手が設定した値段で納得すれば、購入することが出来ます。もちろん、Ticketmasterにしっかり手数料もとられます。需要と供給のバランスですので、調子よい人気チームは値段も高く、終盤にかけポストシーズン進出の望みが絶たれたチームは安くなるのは必然です。直前に購入すれば、チームに負けが込んでいれば安くなるでしょうが、日本から見に出かける場合、航空券やホテルの手配と同時にチケットの手配もしたくなるので、シーズン前かシーズン序盤にチケットの購入をすることになってしまい、ほどほど高い値段になります。

New YorkからMet Life StadiumへNew Jersey Transitを使って

この年のNFLの第17週、ニューヨークジャイアンツは本拠地メットライフスタジアムでワシントンレッドスキンズを迎える最終戦です。当日行われる全16試合のうち、栄えある?結果がプレイオフに影響しない3試合のうちの1試合です。前日のニューヨークは快晴、気温もそこそこでした。当日は雨の確率100%で、レーダー予想でも南西から北東に雨雲が通過し午後に雨量が増えるとのことでした。

朝10時頃に6th Ave. & 53rd St. のホテルHilton Midtownから、7th Ave. & 32nd St.のNew York Penn Stationまで、Times Squareを通って、30分足らずの街中のお散歩です。まだこの時には、ほんのポツリポツリと雨粒が落ちる程度でした。

New Jersey Transitのweb siteで予め往復のチケット(1人10ドル)を購入、プリントアウトし持参していました。10時54分のSecaucus行きの列車の出発まで、時間を持て余してしまいました。ジャイアンツや、まれにレッドスキンズのユニフォームを着た人がいますので、彼らの後について行けば間違いはありません。どのホームから出発するかの10分前のアナウンスを合図に列車に乗り込みます。

この列車は次のSecaucusが終点、つまりジャイアンツの試合のための運行の様です。SecaucusでMeadowlandsへの列車に乗り換えです。乗り換えの際に、自動改札機があり、チケットを通すか、バーコードを読み取らせます。ホームで待っていると、10分くらいで、列車が入ってきました。Meadowlandsまでに停まる駅はありません。遠くにメットライフスタジアムが見えてくると、皆写真を撮っていました。いったん離れるように大きくカーブして駅に着きます。地図で見ると、大分遠回りした線路を走るようです。雨は本降りになっていました。目の前がメットライフスタジアムです。

Met Life StadiumのChase Clubへ

巨大なスタジアムに着いて、入口のゲートでセキュリティーチェックを受けます。ボストンでの爆破事件以降、透明な袋以外のかばん類や傘などは持ち込み禁止です。折り畳みの傘も、横のコンテナボックスの荷物預かりに預けねばなりません。金属探知機での検査もあります。シーズン開始前にTicket Exchangeで買ったチケットを手に建物の中に向かいます。席はSection 215にあり、暖かい屋内のChase Clubを使うことが出来ます。軽食や飲み物のための席が結構な数ありました。まずはそこで、ホットドッグ、チーズステーキサンドとソフトドリンクで腹ごしらえです。チームグッズを扱う小さなショップもあり、マフラー、グローブ、カードを息子が自身のお土産に買い、雨対策に薄っぺらのビニールのポンチョを2つ買いました。

NY Giants 最終戦は勝利

すでに地区3位は確定し、対戦相手のレッドスキンズも地区4位が確定し当時のエースQB、RG3は温存したままで試合には登場しません。残念ながら消化試合です。この年のジャイアンツのRB陣はDavid WilsonやBrandon Jacobsが怪我をして、Andre Brownも故障が多くコマ不足でした。WR陣はHakeem Nicksの去就が取り沙汰され、Victor Cruzは故障、Rueben Randleも怪我とこれまた精彩を欠いていました。代役となったRBのPeyton Hillis、WRのJerrel Jerniganがこの試合では結果を出しましたが、両者とも2014年シーズンを最後に、チームを去りました。

本降りになった雨の中、スタンドの座席のところへ行ってみます。 両チームとも試合前の練習をしていました。スタンドの観客はまばらです。

練習を終え一旦引き揚げていた選手たちが再入場です。

アメリカです。国歌斉唱は欠かせません。

いよいよキックオフです。土砂降りの雨になっています。

前半はFGで先制されるも、Eli Manningから左奥へ走りこんだJerniganへTDパスが決まり、7-3と逆転です。

さらにJosh BrownのFGで点を加えるも、インターセプトされた攻撃をFGに結び付けられ10-6で前半を終了しました。

後半からはManningが退き、Curtis PainterがQBです。試合後の放送を見ると負傷退場だったようです。第3QにJerniganが今度は左サイドライン付近を駆け抜けTDで17-6。

第4QはBrownのFGで追加点をあげ、20-6。
その点数のまま、試合は終了となりました。

レッドスキンズQBのKirk Cousinsは左サイドのパスがことごとく左へ逸れ、パス成功も19/49と不調で、昨年、今年の活躍は全く想像できない位の悪い出来でした。

テレビでの観戦では分からなかったこと

実際にスタジアムで試合を見ると、テレビで見ていてはあまり気が付かなかった事が見えてきます。

テレビ放映のコマーシャルの時間分?試合が確実に止まります。パント後に攻撃権が替わる時、結構な時間をおきます。今回の様な、雨中の消化試合では、その時間がすごく長く感じました。

パンターの上手さ、下手さが実際の試合では良く分かります。パントの高さや飛んでいく方向、距離などはテレビではしっかりイメージできませんが、実際の試合ではパントを見るのが楽しくなります。この試合でのジャイアンツのSteve Weatherfordのパントは上手かったです。時代の流れで、今シーズンはWeatherfordもBrownも既にチームには居ません。

人工芝の緑がとても綺麗に見えます。日本の野球場の人工芝より目に映えます。

雨中で観客はわずかしかいませんでしたが、それでもクラウドノイズは喧しかったです。満員の観衆でのクラウドノイズを体験できなかったのが残念です。

客層は、ほとんどが白人です。我々も含めた有色人種はごく少数派です。しかも裕福層?の彼らはChase Clubの中でビール片手にモニターを見たり話をしたりと、のんびりと時間を過ごしているようで、雨の中、スタンドの座席で濡れながら試合をみたりしません。同じ日の地区優勝決定戦となったEaglesとCowboysの試合は観客数9万人とのことでしたが、この試合はその10分の1、いや20分の1も観客席にはいませんでした。

 

野口英世は黄熱病を発見したのか

ふとした機会に野口英世に関する本を読み、その関連でもう1冊の本を読みました。「STAP細胞」が話題になった記憶もまだ新しい頃でしたので、科学で何かを成し遂げることの危うさはいつの時代でも同じだという感想を持ちました。野口英世への評価として、否定的な面もあれば肯定的な面も記されていますが、欲とか金銭といった泥臭い面の彼のエピソードを読むと、子供達に偉人として紹介される聖人君子の様なイメージの野口英世との乖離に戸惑います。最後のアフリカへの出発と彼の死について、なにかもやもやとした気持ちだけが、読んだ後に残りました。野口英世は何をした人かと息子に尋ねたことがあります。「黄熱病を発見した人」と、答えてくれました。少し違うんだがとも言ってやれず、大人になって興味が向いたらこれらの本を読んでくれと思いました。

黎明期のウイルス研究

野口英世と同時代の研究者たちの苦闘

鳥山重光 著
創風社 ¥2000(税別)
2008年10月15日 第1刷発行

 著者は植物ウイルス学を専門にする農学博士であり、専門家の立場を踏まえて「初期の濾過性ウイルスの研究の実情を踏まえて、野口英世の業績を批判的に検討し、そのままの姿を見ようとしたものである。」とのことです。また、「野口の業績を全面否定することへの警鐘」としての「一植物ウイルス研究者の試みである。」とも著者自身が述べています。

第1部で「欧米と日本における黎明期のウイルス研究」と題し、ウイルスの発見や初期の研究が記されています。第2部で「野口英世とロックフェラー研究所」と題し、野口英世の業績に関する記述に多くの頁を割いています。野口英世が亡くなった時のロックフェラー医学研究所を代表する3名の追悼の辞や、没後30年を経て書かれたポール・クラークの野口像などから読み取れる、著者の解説による示唆に富んだ文章が多く記されています。

締めくくりには、プレセットの著書について、「しかし、残念ながら、彼女が発見したものは、あるがままの野口英世であり、新たな発見に失敗した。」「プレセットの失敗は、1910年ごろから1935年代の世界の研究者たちの濾過性ウイルス研究を全く無視した調査だったことに原因があるのではなかろうか。」と述べています。

プレセットの著書を読む前に一度読み、読んだ後にもう一度読み直してみました。誰も追試(追加実験で結果の再現を確認すること)ができない野口の培養技術をも、全く否定するのではなく、後世にも影響を残していることの肯定的な評価もしています。一方で、厳密ではない当時の論文の査読システム(論文が掲載に値するかの評価判断システム)についての否定的な評価をしています。肯定できる面と、否定的な面の、両者を上手くバランスをとって書かれているようにも思えます。

Noguchi and His Patrons

野口英世

Isabel R. Plesset 著
中井久夫、枡矢好弘 訳
星和書店 ¥3900(税別)
1987年2月26日 第1刷発行

この本は野口英世を否定的に捉えている本であるとの評価もあります。淡々と、野口英世自身の書簡や周囲の人の発言、行動などを並べてあるようにも思えます。

アメリカやヨーロッパでの、そして中南米やアフリカでの、当時の研究生活の実際が窺い知れる内容です。黙々と実験に取り組んではいるが、彼の研究室そのものや、補助スタッフなど研究の体制は粗雑といった面や、精一杯虚勢もはったようなエピソードや書簡も数々記されています。他の者が追加実験を行って、野口英世の出した結論を確認しようとするも、どうしても再現できない論文の数々。彼はテクニックの問題と無視しますが、現代の科学の世界では論文として通用しないことは明らかです。一方、当時は無視されたが、後世になって電子顕微鏡が出てきて真実だとわかった彼の推察なども紹介されています。

 

大阪で食べるダルバート

ダルバートとは

以前、在日ネパール国大使館の web site では、ダルバートについて以下の様に説明、紹介されていました。

ネパールにおける典型的な食事、それが、ダルバートです。お皿いっぱいに盛り上げた飯米(バート)にレンズ豆で作るスープ(ダル)をつけ、そこにスパイスで様々に調理された野菜(タルカリ)か肉と、漬け物(アチャール)を添えたセットが、ダルバートと総称されるネパールの典型食です。

Boss Nepal の「Eating, Nepali style」の記事では、

Every country has its own distinct cuisine.  In the case of Nepal, there are several regional variations, but one dish has come to characterize the country’s cuisine: dal-bhat-tarkari.  Dal is a lentil sauce that is eaten with the bhat (rice).  Tarkari is a generic name for vegetable curry and can be prepared in different ways according to seasonal availability of vegetables and local preferences.  It is often served with achar (pickles) to enhance the taste.  Meat curry is also popular, especially on special occasions and festivals.

勝手に訳してみると、

どの国にも、その国の独特の、他の国とは異なる料理があります。ネパールの場合、いくつかの宗教による多様性はありますが、ある一皿がこの国の料理を特徴づけるようになりました。それがダルバートタルカリ dal-bhat-tarkari です。ダル dal はレンズ豆のソースで、バート(ご飯)bhat と一緒に食べます。タルカリ tarkari は野菜カリーの一般的な呼び名であり、季節によって採れる野菜によって、またその地方の好みによって、さまざまな方法で調理されます。しばしばアチャール(漬物)achar が添えられ、味に深みを増します。肉カリーもまた、特別な機会やお祭りの際にはよく供されます。

ネパール料理とインド料理

しかし残念ながら、日本にあるインド・ネパール料理店では、メニューにダルバートを見つけることさえ出来ないこともあります。ネパール料理といっても、普通の日本人にとってはインド料理と区別がつかず、ナンとカレー、タンドール料理のイメージで、オーダーもそれらが中心です。そもそも、北インドの一般家庭にはナンを焼くタンドール窯は無く、日常食べるのは Tawa タワ(鉄板、フライパン)で焼くロティ、チャパティやパロタです。南インドでは米食が中心です。

技能ビザの上陸許可基準、基準省令1号の「料理の調理又は食品の製造に係る技能で外国において考案され我が国において特殊なものを要する業務に従事する者」に該当するとして、タンドール窯で調理ができる調理人にはビザを発給し、それに関してタンドール窯ブローカーの介在、暗躍もあったという時代背景もあり、主にネパール人が経営するインド・ネパール料理店(インネパ店)でも、ナンとバターチキンカレー、タンドリーチキンといった組み合わせのメニューを定着させてしまいました。商売としても、チャパティ等よりも甘いナンの方が子供さんや女性には受けが良いので、そのナンを巨大化させて他店と差別化といった流れに自然となりました。

東京、名古屋、福岡のダルバート

最近、東京の新大久保周辺、名古屋、福岡などで、ダルバートを供するお店が増えています。周囲にネパール人が比較的多く住んでおり(2018年末に外国人登録をしているネパール人は東京都 27598人、千葉県 6801人、神奈川県 6425人、愛知県 9093人、福岡県 6379人)、来店してくれるのがやはりビジネスとして成り立つ条件の様です。ワンコインダルバートと称して、同胞の若者を支える価格設定がされたりしています。

大阪、兵庫、京都、奈良のダルバート

ネパール人がそれほど多くない、大阪(2018年末に外国人登録をしているネパール人は 3053人)、兵庫、京都、奈良など関西でのダルバートの提供はどうでしょう。ネパール料理に興味を持つ日本人が客層の中心となります。

ダルと一緒にバートを食べ、それに味わいを添えるのがタルカリやアチャールであり、その組み合わせを楽しみ、豆の味を味わいながらご飯を食べるという日常食としてのダルバートでは、その魅力を理解してもらうのは難しいかもしれません。

マス Masu(肉カリー)も本来は、ドライあるいはセミドライタイプで、ダルやタルカリ、アチャールの味を邪魔することなく引き立てるのが理想です(著者の嗜好です)。「カレー」のカテゴリーでダルバートをとらえる人にとっては、マス(肉カリー)がその様なドライあるいはセミドライタイプで供されたり、ダルが辛くなかったりすると、満足してもらえません。汁気の多い Jhol タイプの「辛い」「カレー」が入っていないと認めてもらえず、リピートしてもらえない可能性があります。「ズーズーダゥ jujudhau」さん、「few」さん、「パリワール Pariwar」さん、「ヤク & イエティ Yak & Yeti」さん、既に店を閉じられた「ターメリック Turmeric」さん等では、調理に手間がかかっても、信念を曲げられずに、ドライあるいはセミドライタイプのマスを供されます。カトマンズの有名店のダルバートのマスも最近は諸事情で汁気の多いタイプばかりになってしまったことを、昔をご存じの方々は嘆いておられます。

ネパールの主たる宗教はヒンドゥ教です。良く知られている様に牛肉を食べることは出来ません。あまり知られていませんが、豚肉も多くのカースト、民族では忌み嫌われ、特に年配の方は口にされないようです。よって、マスはチキンかマトン(山羊)に限られ、種類が少なくなってしまいます。お祭りの際は、山羊肉が一番のごちそうです。地方に行けば豚肉を食する習慣のある民族もあります。関西の場合、ポークがダルバートに登場するのは、日本人店主のお店が多い様です。

関西のダルバートの草分けの日本人と言えば「ダルバート食堂」の遼さんですが、最近では「Asian kitchen cafe 百福」さん、「ニタカリバンチャ Nithakali Bhanchha」さん、「ヤタラスパイス Yatara Spice」さん、「メシクウタン? Mesi-kutan?」さんなどでも日本人店主が頑張っておられます。老舗の「亜州食堂 チョウク CHOWK」さんでもダルバートが供されることがあるようですが、まだ頂けてません。

ダルに使われる豆、そしてその組み合わせ、味付け、豆を潰したタイプか、粒感を残したタイプかはお店によって様々です。ダルバートでよく使われる豆の種類は「マメな豆の話 世界の豆食文化をたずねて 吉田よし子著」の記事で書評として記し、まとめています。

マス Mas <Black Gram> ケツルアズキ
ムスロ Musuro <Lentil> レンズマメ
ムング Moong <Green Gram> リョクトウ
ラハル Rahar <Pigeon pea> キマメ
チャナ Chana <Chickpea> ヒヨコマメ
ボリ Bodi <Black eyed peas> ササゲ
シミ Simi <Green beans> インゲン

マスのみの、マスコダルを供されるのが「シュレスタ Shrestha」さんと、「ヴウェチェ(ボエチェ)Bhwa Chhen」さん、ムスロのみが「JahpaL Live ジャーパルライブ」さんです。「ニタカリバンチャ Nithakali Bhanccha」さんはマスとムスロのミックス、「シムラン SIMRAN」さん、「マナカマナ Manakamana」さん、「月と太陽」さんはムスロとムングのミックス、「アカーシュ Akash」さんと「サンチャイ Sanchai」さん、「ナラヤニ Narayani」さんはマス、ムスロ、ムングの 3種類のミックス、「オアシスカフェ The Oasis cafe 桃谷店」さんも同じ 3種類ですが、不定期のスペシャルダルバートの際にラハルとチャナが加わっていました。この 5種類の組み合わせは「シダラタ Siddartha」さんでも頂けます。チャナが使われているのは「パリワール Pariwar」さん、他に「ヤク & イエティ Yak & Yeti」さんがムスロとのミックスで、「few」さん、「Asian kitchen cafe 百福」さん、「barefoot curry ベアフットカリー」さんはマス、ムスロ、ムング、チャナの 4種類のミックスです。ボリを使われるお店もあり「ダナチョガ Dana Choga」さんは、マス、ムスロ、ボリ、チャナのミックスです。「ダルバート食堂」さんはマス、ムスロ、ムング、ラハルのミックスですが、タカリダルバートにシミが供されることがあります。多くの店では、ほぼ固定されている豆の使い方ですが、「ズーズーダゥ jujudhau」さんではマス、ムスロの組み合わせをベースに、豆の種類を変え 3種類から 4種類のミックス、多い時には十数種類を使ったクワンティコジョルが楽しめます。

タルカリやアチャールも、日本とネパールでは採れる野菜が異なりますので、日本でとれる季節の野菜を上手く調理されているお店もいくつかあります。「ズーズーダゥ jujudhau」さんのタルカリ、アチャールに使われる素材や調理方法の多さ、手間のかけ方が特筆されます。普段のダルバートと言うよりは、お祭りやハレの日に家族が集まる際にアマ(母親)が精魂込めて作るダルバートというコンセプトで始まったのが、週末のスペシャルダルバートです。「few」さんは地元の川西で採れる野菜を、タルカリやサグ(青菜炒め)に使われ、「パリワール Pariwar」さんはもはや野菜プレートと言ってもよいくらいの多くの野菜が並びます。逆に、ネパールでも摂れるが、タルカリやアチャールには使わない野菜を使っておられるお店もあります。

ネパール人が経営するインド・ネパール料理店(インネパ店)でも、ダルバートをメニューに載せておられる店も増えましたが、他のナンとのセットに合わせたグレービータイプのカレーや、ダルも同じく豆「カレー」の一皿によく遭遇します。そんなお店の方にある時尋ねてみると「日本人はネパールのカレー(ダル)を食べない。だからこの(グレイビーベースの)カレー(ダル)。」とのことでした。ダルバート用のダルを別に作るのが面倒くさいのは分かりますが、ダルバートを食べたい日本人は、ネパールのダルを食べたいだけです。

ダルバートの「バート」、ごはんに使われる米についての一考察は
→「ダルバートのバートはマスマティ米という意味ではありません」
を、お読みください。

美味しいダルバートに巡り合えるのではと期待し、新しいお店の訪問は続けています。My Map「ダルバート Dal bhat by フクロウの気の向くままに」を作ってみました。2023年1月「関西ダルバートMAP」に名前を変更してみました。こちらも随時更新していきます。

『ダルバート(大阪、兵庫)ネパール料理』では、ダルバートの他、カジャ、サマエバジなどネパール料理に関する記事を、
『ネパール旅行 2017年』『ネパール旅行 2018年』では、ネパール旅行記をご覧に頂けます。
興味あるネパールの食文化や伝統行事には、関連記事を引用する様にしています。

『大阪で食べるダルバート』を 2017年1月に記し、2018年1月に追記改訂しました。内容も古くなったこともあり、2020年3月に書き直し、2021年2月には My Map を追加しました。2023年1月に関西ダルバートMAPに名前を変更しました。

著者のダルバートに対する好みも含みますが、記事に関連し、開示すべき利益相反関係にあるお店はありません。

下の写真はカトマンズで頂いた中で印象に残っている、「Sundar Bhojanalaya スンダル ボジャナラヤ」さんで頂いたシンプルなダルバートです。追加したチキンは、ドライ~セミドライタイプです。

大木神父奮戦記

学生の頃ネパールを旅したかった理由の一つが大木神父の存在でした。ネパールへ渡られ、その後、障がい児教育の施設をポカラで運営されるようになったと耳にしていました。ポカラとはどんな場所なのか、見に行きたかったのでした。その大木神父のネパールでの経緯などを綴った本が出版されています。

大木神父奮戦記

大木章次郎語り下ろし製作委員会
小学館スクウェア ¥1428(税別)
2011年7月15日第1刷発行

イエズス会の大木章次郎神父が1977年ネパールに渡り、1979年からポカラで障がい児教育センターであるシシュ・ビカス・ケンドラを、小さな平屋の家を借りて試行錯誤しながら始められました。ネパールはヒンズー教の国であり、それまでは、障がい者というのは前世の罪の結果生まれてきた隠すべき者というように考えられていました。その様な価値観を持つ人々が多いネパールで、障がい児への教育に取り組まれたことは、並大抵の苦労ではなかったはずです。しかも、政府はキリスト教を非常に警戒しており、宣教をしようとしているのではないかと疑ってキリスト教の団体には圧力をかけていました。

江口美由紀さん「大木神父からの聞き書き」の形で原稿をまとめられた本です。ビザの問題、資金の問題、政府からの圧力のエピソード、マオイスト(共産党毛沢東主義派)からの殺人予告などを語られておられます。 ネパールの政情はとても不安定です。大木神父に対するマオイストからの殺人予告だけではなく、実際に首都カトマンズではカトリック教会の爆破事件も起きたりしました。この本で語られている以上に、ヒンズー教とキリスト教の間には様々な葛藤があるようで、ご苦労が行間からも読めます。 日本では、大木神父の窮状を経済面からでも支援しようと、倉光誠一氏「ポカラの会」を立ち上げられ、集まった寄付を神父に送り支援される様になったのです。その後、曾野綾子さん主宰される海外法人宣教者活動援助後援会も、施設の拡張に援助を申し出られたとのことです。さらに、スタッフが独立して、シシュ・ビカス・ケンドラを卒業した後を受け入れる障がい者施設、セワ・ケンドラも誕生しました。こちらにも日本人のサポーターグループが有り支援をされているとのことです。また、子供がいるために母親が働きに出られない貧しい母子家庭の子供を、母親が働いている間預かるジョティー・ケンドラも、経営に必要な資金をポカラの会が出すことで始められたそうです。こちらではシスター川岡が奮闘されておられました。さらに、貧しい人たちの診療を自分たちでしたいと、あるネパール人の青年がシッダールタ・クラブというNPOを作り、会費を集め、ボランティアの医師に診療を頼むようになりました。しかし、金銭面の問題から、シッダールタ・クラブもポカラの会の援助無しでは運営できない状況もあったようです。神父の意思を継いで、ポカラにヒマラヤの見える教会を建てる計画も、教会建設支援の会が立ちあげられ、支援を集められました。神父は2009年イエズス会から帰国指示が出され、後進に道を譲って帰国されました。ポカラの会もその趣旨を継続するため、神父の帰国を機に、「新ポカラの会」として再出発されました。 「ポカラの会」「新ポカラの会」は倉光誠一氏が、ご高齢にもかかわらず、私費でネパールに行き来されて支えて来られました。web siteも個人で立ち上げておられましたが、同氏は2014年突然の病でご帰天され、大木神父も2015年ご帰天されました。その意思は、「ニューポカラの会」に引き継がれています。

大阪で食べるスリランカカレー

ワンプレートで供されることの多いスリランカカレー、見た目も綺麗で、食べやすく、美味しく、2016年のマイブームでした。何故今までその魅力に気が付かなかったのでしょう。巷でもブームになりつつあり、お店が増えてきています。記載順は訪れた順です。どのお店も魅力的です。

カレーやデッカオ

大阪市中央区南船場3-8-5 南船場ビル2F
https://www.facebook.com/dekkao

船場方面に用事で出かけた際に入ったお店で、私にとってスリランカカレーへの入口です。スリランカセットをいただきました。訪れた日は日替わりのキーマカレーが売り切れ、ポークカレーでした。

SRI LANKAN DINING AMAYA
スリランカダイニング アマヤ 本町店

大阪市中央区久太郎町3-1-22 OSKビル1F
https://www.facebook.com/SRI-LANKAN-DINING-AMAYA

日を置かず出かけたお店がここでした。スリランカカレーへの興味を加速させてくれました。日替わりカレーにカレーが追加できるあいがけを頂いたのが始まりです。ビルの通路を奥に進んでようやく見つけることが出来る小さな食堂といった佇まいです。曜日によって供されるものが異なります。とある日はビリヤニでした。

RASAHALA  ラサハラ

大阪市淀川区東三国4-17-6
https://ja-jp.facebook.com/RASAHALA/

東三国の駅からすぐのお店です。ランチメニューの中から、セイロンプレートを、キーマカレーを選んで頂きました。ポヤデー(満月の日)にはスペシャルベジタブルプレートが供されます。

NUWARAKADE ヌワラカデ

大阪市西区江之子島1-6-8
https://ja-jp.facebook.com/roddagroup/

NUWARA プレートをバスマティーライスに変更し、カレーはマトンを選択しました。マトンを選んだせいか、辛いの大丈夫ですかと聞かれました。

Ceylon Curry セイロンカリー

大阪市中央区南船場1-13-4
https://ja-jp.facebook.com/ceyloncurry/

定番のアンブラです。マトンを選び、バスマティライスに変更、フィッシュカレーのミニカレー追加をお願いしました。初めて訪れた際は、このアンブラではなく、蓮の葉に包んだランプライスを頂きました。週末などスペシャルメニューが登場する様です。

Shanthi Lanka シャンティランカ

宝塚市平井2-7-11
https://twitter.com/shanthi_lanka

大阪ではなく兵庫になりますが、阪急宝塚線の山本駅からすぐにあるお店を訪ねました。近所のママ友の集まりらしきグループ2組に挟まれて食べてきました。ランチCセットはデザートと飲み物も付きます。

PONGALA CURRY ポンガラカレー

大阪市北区角田町8-47 阪急サン広場B1F
http://www.pongalacurry.com/

阪急百貨店の地下1階の真向かいという絶好の場所にあり、通し営業されているので遅めの昼食にも便利です。バスマティライス、マトンへの変更可能なスリランカプレートをまずいただきました。再訪の際は、ポンガラプレートをいただきました。

SIGIRIYA シーギリヤ

大阪市西区立売堀4-7-15
https://ja-jp.facebook.com/sigiriya.jp/

 スペシャルライス&カレープレートをマトンマレーで頂きました。

RODDA group ロッダグループ

大阪市西区千代崎1-23-9
https://ja-jp.facebook.com/roddagroup/

NUWARAKADEの方に先に訪れ、本店?のこちらにうかがう機会がなかったのですが、年末に念願が叶いました。もちろん、というかこの日はギャミラサのみのメニューでしたので、マトンをいただきました。

AMBALAMA アンバラマ

大阪市北区中崎町3-5-14

アンバラマプレートをマトンカレー、バスマティライスに変更していただきました。綺麗な店舗ですが、隣のライブ?からの音がよく響きます。

<2018年1月追記>

その後も折を見て、美味しいスリランカ料理を頂きに伺っています。
→スリランカカレー(大阪、兵庫)スリランカ料理

ペルー、ボリビア、ブラジル1988 気の向くままに一人旅

遺跡を訪ねて、中国、ネパール、インドと旅した後、仕事に就く前の最後のチャンスに、アルバイトで貯めていたお金をつぎ込んで、南米に旅立ちました。世界遺産がまだ大きく取り上げられる前でしたが、一番の興味はマチュピチュでした。サイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んでいく」を小学生の頃に耳にしてからの憧れの南米です。ペルーとボリビアをメインに、ガラパゴス島かイースター島もと欲張って考えてはみたものの結局は無難なブラジルを追加することにしました。予防接種記録が必要とされる国もあったので、黄熱病の予防接種も受けての出発です。ペルーではインカの遺跡とアマゾンのジャングルツアーがメインで、チチカカ湖まで進めばボリビアには辿り着けるか位の心積りでした。ブラジルは景観と街を訪ねる旅となり、イグアスの滝は必須でした。大都会のサンパウロとリオデジャネイロ、地方都市のサルバドールの組み合わせにしました。

格安チケットを探し、バックパッキングでの旅でしたが、中国、インド、ネパールの旅行でほぼ自分なりの旅の方法が決まってきていました。何ヶ月もかけての旅ではないので、効率を優先し、飛行機は使える限り使いました。宿を見つけるのも結構な手間になりますので、1ヶ所に数日滞在しその周辺を訪ねるやり方に自然となっていました。宿の予約は一切しませんでした。部屋に荷物を置いて動き回るので、ドミトリーは使わず、安宿で鍵のかかる部屋を探しました。周辺への足は、ペルー、ボリビアでは地元の小さな旅行会社のツアーを利用し、ブラジルの街中では路線バスを使いました。治安情勢も当時と今とでは違うでしょうが、リスク回避は最優先で、路線バスを使う際には必ずバスの前方、運転手のすぐ側にしか乗りませんでした。

この旅も狭義のバックパッカーとは違う旅ですが、自身にはこれが最も楽しめる形にすっかりなっていました。もう30年近い前の話ですので、概要のみ記します。

Day 1
格安チケットのため大阪伊丹空港から成田経由でロサンゼルスまで。当時全日空が路線を開設したばかりで値段が安かったのです。ロサンゼルスはダウンタウン近くの安モーテルで1泊しました。南米までのチケットをピックアップすべき旅行会社がダウンタウンにあったのがその理由です。8年後にそのロサンゼルス近郊に住むことになろうとは想像もしませんでした。

Day 2
LaxからPeruの首都Limaまでブラジルの航空会社Varig航空で飛びました。Varigを選んだのはLax→Lima→Rio→Laxの国際線とともにBrasil国内の数本のフライトに使えるパスが買えたからです。Limaには深夜到着ですので空港でそのまま夜を過ごしました。街に出るよりは空港内の方が安全と考えました。結構な数の人が空港内で夜明けを待っていました。

Day 3
朝早い便、7時頃の便でLimaからCuzcoへ飛びました。飛行機はFaucett航空で、これも4本のフライトに使えるパスを購入しておきました。Lima→Cuzco→Lima→Iquitos→Limaと一応予約は入れておきましたが、後々Cuzco→Limaはキャンセルすることとなりました。 Cuzcoはとても標高が高い所に在りますので睡眠不足の体にはきつかった覚えがあります。宿を見つけてとりあえず昼過ぎまで寝て、疲れを少しでもとることにしました。目が覚め、身体ならしに街外れにあるSacsayhuamanの遺跡まで散歩しました。

Day 4
午前中は市内を歩き回ります。小さな街ですのでガイドブック片手にのんびり歩いて回ることができます。午後から小さなマイクロバスで回るツアーを前日に予約しておきました。Sacsayhuaman、Puka Pukara、Tambomachai、Quenkoの遺跡を回ってくれます。ツアーの客層は主にペルー人のようで、ガイドは英語とスペイン語を話してくれますが、英語の説明を聞く客は私のみです。

Day 5
いよいよMachu Picchuに出発です。Ollantaytamboまでバスで行って列車に乗り換えます。今は外国人専用の素晴らしい客車も走っている様ですが、当時はトイレが汚すぎて使えない、そんな客車でした。その列車で麓の駅まで行って、そこからは曲がりくねった道を登っていくバスに乗り換えです。遺跡で、しばし散策です。小学生の頃からの期待を裏切らない素晴らしい景色でした。帰りは来たルートを帰りますが、列車でそのままCuzcoまで帰りますした。

Day 6
また前々日に予約しておいた小さなバスで回るツアーです。Pisacの青空市場、Ollyantaitamboの遺跡、Chincheroの市場などを回りました。

Day 7
CuzcoからやはりBoliviaに陸路で行くことにし、まずTiticaca湖畔のPunoまで列車で移動です。朝出て一日がかりで夜にPunoに到着しました。途中通過する最高点は海抜4315メートルです。Punoには暗くなってからの到着ですので、少し宿探しに苦労しました。

Day 8
午前中はPuno市内散策です。ここも小さな街ですので歩いて回れます。午後はバスでSillustaniの遺跡に出かけました。荒野にある寂しさを誘う遺跡です。宿の主人にBoliviaの査証の取り方を教わり、お願いすることにしました。入国には査証は必要でしたが、ボリビアにたどり着くか分からず、また現地で何とかなるとの話もありましたので、日本では用意していませんでした。

Day 9
Titicaca湖の探検に出かけました。葦の浮島で有名なUros島とTaquile島観光です。Uros島は完全に観光地と化しています。Taquile島では船を降りたら階段を登って勝手に散策です。Titicaca湖を360度望める場所に座ってただゆっくりと時間を過ごすのも良いものでした。

Day 10
PunoからBoliviaの首都La Pazまではバスで移動でした。途中国境の手前の街Copacabanaでバスを乗り換える必要があります。湖をバスが船にのって渡るところがあります。夕刻にようやくLa Paz到着です。標高が高いので結構寒く、宿を探すときは暖房が効くかを確認しました。

Day 11
La Paz市内散策です。沢山の博物館がありますので、これらを訪ねて回りました。Museo National de Arte、Museo del Litoral Boliviano、Museo de Metales Preciososなどです。

Day 12
Tiahuanaco遺跡に出かけます。午後はValle de la Lunaにも行きました。 本来はCuzcoからLimaに戻る予定でしたが、Cusco→Puno→La Pazと東進しました。Cuscoまで陸路戻るには時間がないので、La Paz→Lima間のボリビア航空Lloydo Aereo Bolivianoのフライトを急遽購入しました。Faucett航空のCusco→Limaをキャンセルしてしまうと、その先のLima→Iquitosも勝手にキャンセルされてしまうのではという点が気がかりでした。Lima→Iquitosは搭乗する旨リコンファームの連絡は入れましたが、空港で実際に手続きするまでは不安は拭い去れませんでした。勝手にキャンセルされることなく、大丈夫でした。

Day 13
La Paz→Lima間は前述のボリビア航空Lloydo Aereo Bolivianoでチチカカ湖の上を飛び、さらにLimaからIquitosまで、もともとの予約を使ってFaucett航空で移動です。Iquitosの空港を出た所にはJungle Tourの客引きが沢山待っています。その中から一つの旅行会社Queen Adventure社のTourを選びました。とりあえずこの夜はIquitos市内のホテルを探して宿泊です。

Day 14
2泊3日のJungle Tourに出発です。港からモーターボート程度の船で1時間余り、川岸で船を降りてしばし歩くとキャンプ地に着きました。キャンプ地といってもいくつかの建物を備えた、少しだけ文明的なものです。シャワーは水シャワーです。電気はありません。

Day 15
昼間はジャングルの中の散歩やカヌーで細い支流を探検です。夜は大毒蜘蛛タランチュラを探しにジャングル散歩に出かけました。客は個人客計3人だけで、ガイドを交えて、夜は酒宴で更けていきました。

Day 16
二日酔いの頭をかかえて近くの漁師の家まで散歩です。獲った魚などみせてもらいました。その後Limaへ向けて出発です。Faucett航空です。

Day 17 & Day 18
Lima市内散策です。多くの博物館などがあり一つ一つ訪れて行きます。それぞれ結構時間かかりました。

Day 19
Pachacamacの遺跡までバスで出かけました。あまりに広大というかゆっくり歩いて回るといった遺跡ではなさそうです。

Day 20
せっかくここまで来たのだからNascaの地上絵も見逃せば後悔するという気持ちになり、大枚はたいて日帰りすることにしました。Limaの空港からセスナでNascaまで、そこでもう一度飛行機乗り換え地上絵を真上から見学です。この時の昼食は現地のセスナでの観光が済んでからにしろというアドバイスの意味がよくわかりました。地上絵が良く見えるようにセスナは右へ左へと旋回を繰り返し、嘔吐一歩手前といった状態です。飛行機を降り昼食をとって、小さな博物館見たりして、またLimaまで戻りました。 深夜のVarig航空でPeruを後にしてBrazilに出発です。  PeruではCuzcoの高地と、Iquitosの熱帯雨林、Nascaの砂漠地帯と違った気候の場所を楽しむことが出来ました。Boliviaは最近ウユニ塩湖がテレビ番組でもよく登場するようになりましたが、当時はそこまで足を延ばす時間もお金もありませんでした。La Pazの街中と周辺の遺跡だけでも十分楽しめました。食事もあまり違和感なく美味しく食べていました。特に少し油と塩を入れて炊いたご飯の味を気に入って食べていました。またロモサルタードLomo Saltadoは焼肉定食といった感じで食べやすかった覚えがあります。

Day 21
Rio de Janeiroで乗り換えSalvadorまで一気に行ってしまいます。Africaから人々が奴隷として連れてこられた港町Salvadorはバイーア地方の中心都市であり、African-Brazilianの文化を知ることができるAfrica系の人々の街です。湿気もすごく、旅の疲れがでてきていたので2泊の予定を1泊に変更することにし、宿を決め、Valigで予約変更の手続きをした後はとりあえず街の散策です。この街は崖の上と下の2つからなっており、エレベーターで行き来できます。

Day 22
Sao Pauloに飛行機で移動です。日本人街の近くで宿を探し久々の日本食も食します。

Day 23 & Day 24
Sao Paulo市内散策です。Placa de Se, Catedral Metropolitanas, Instituo Butanta, Museu de Arte de Sao Paulo, Museu Lasar Segall, Museu Paulista, Parque da Independencia, Parque Ibirapuera, Museu de Arte Moderna, Bairro Oriental, 日本移民資料館などを足早に見て回りました。

Day 25
Sao PauloからFoz do Iguacuへ飛行機で移動します。宿を探して荷物を下ろした後は早速Brazil側の滝に行きます。宿をバスターミナルのすぐそばにとったので、ここでの路線バスでの移動にとても便利でした。

Day 26
Itaipuダムを見に行きます。世界最大?のこのダムはさすがに大きいです。

Day 27
Argentina側の滝を見に行きます。ここでも路線バスを乗り継いでいきます。悪魔ののど笛を覗きこむ位置にある展望台からの眺めもすばらしいものです。途中で見ることのできる滝の風景も綺麗です。

Day 28
Paraguayの街Puerto Pres Stroessnerへ行ってみました。午後飛行機でRio de Janeiroへ移動しました。

Day 29 & Day 30 & Day 31
Rio de Janeiro市内散策です。Morro do Corcovado 両手を広げたキリスト像が立つコルコバードの丘とPao de Acucar ぽつんと突き出た岩山は眺望がとても良いです。Museu Nacional de Belas Artes, Museu Historico Nacional, Museu Nacionalなどの博物館なども見て回ります。Estadio Maracana マラカナスタジアムはブラジルサッカー場の代表的存在で、2016年のリオオリンピックの開会式などが行われた場所です。フラメンゴの試合を見に行きましたが当時の大エース、後の日本代表監督となったジーコは故障欠場でした。 市内の移動は、専ら路線バスでした。地図をよく見ておき、バス停では乗りたいバスの番号をよく見て手を上げてつかまえ、降りる場所も言葉がよく分からないので周囲をキョロキョロして判断しました。唯一のトラブルがそのサッカーの試合の帰りに起きました。夜遅くでしたが、スタジアム前から路線バスに乗りました。イパネマ方面へ帰るはずのバスに乗り、終着点に着いたのですが、そこは全く違う場所でした。バスの行き先表示が最初から間違っていたのでした。深夜に近い時間に、知らない場所に放り出された同じ境遇のブラジル人(おそらくリオに詳しくない地方からの人達だったのでしょう)が何人もいて、皆で運転手に怒りをぶつけていました。

Day 32
Laxへ向けて出発です。さらに乗りついで、成田経由で戻ってきました。偶々同級生の一人と成田空港で出会いました。彼もブラジルを旅していたとのことでした。

スペイン語圏のPeru、Boliviaからポルトガル語圏のBrazilへ移動したとき、空港でのポルトガル語でのアナウンスで違う国に移動したと実感した覚えがあります。ボサノバのポルトガル語の響きが気に入り、帰国してから沢山のCDを買いました。

中国1986 ネパール、インド1987 バックパッカーとフラッシュパッカー

中国への個人旅行 1986

1980年代後半、学生時代に出かけた最初の海外旅行の行先は中国でした。中国への個人旅行がようやく可能になった頃です。ビザの関係から、香港から広州へ団体旅行で入る形を取り、以降は各個人が自由に旅行するというものでした。「地球の歩き方」を手に、「格安航空券」を使って旅する「バックパッカーもどき」のデビューでした。

広州から西安へ飛行機を使い、そこから鉄道で西安→洛陽→鄭州→上海と移動することにしました。バックパッカーとは、別の意味では、移動手段と宿の確保の連続です。宿の確保はまだしも、鉄道のチケットの確保は想像以上の混沌の中でした。ようやく窓口に辿りついても「没有」の一言で終わりです。目的のチケットの確保には多大の時間と労力を費やしました。正統派?バックパッカーからすればそんな事は当たり前と言われそうですが、限られた時間で旅行をする身にはこの時間は節約したいと思いました。宿泊も正統派?バックパッカーにはこれまた怒られますが、気ままに旅行したいのに他人に気遣うドミトリーは避けたく、質素ながらも鍵のかかる部屋に泊まりました。盗難などのトラブルも避けたい意味もありました。

インド、ネパールへの一人旅 1987

中国から戻ると、すぐに次の目的地への計画です。気持ちはインド、ネパールしかありませんでした。翌年の春休みの18日間が、使えるすべてでしたので、主な移動手段はすべて飛行機にしました。格安航空券は大阪→香港(1泊)→カトマンズの往復です。ネパール国内線の、カトマンズとポカラ間の往復の航空券もとっておきました。カトマンズから先は、カトマンズ→バラナシ→カジュラホ→デリー→ボンベイ(ムンバイ)→オーランガバード→マドラス(チェンナイ)→マドゥライ→カルカッタ(コルカタ)→カトマンズをIndian airlinesの現地のオフィスで繋げてもらいました。外国人向けの周遊航空券のカテゴリーのものを使った様な記憶があります。荷物はバックパッキングで出かけ、宿は行き当たりばったりの安宿泊まりでしたが、自身でも狭義のバックパッカーとは違うと思っていました。

フラッシュパッカーとバックパッカー

最近、「フラッシュパッカー」なる言葉があることを知りました。定義としてはバックパッカーよりも少し金銭的に余裕のある旅行者を指すようです。『基本的に格安旅行だが、ドミトリーは嫌なので少し宿代にお金を出す、あるいは時間節約に飛行機を移動手段に使うのにお金を使う。』のも含まれるなら、私の学生時代のこれらの旅のスタイルもこの言葉に近いのでしょう。スマホなどを片手にネットの情報を得ながらという定義であれば、もちろん程遠いものですが。

個人でみれば、年を取れば旅に使える日数やお金も変わり、旅の方法も変わっていきます。社会全体でみた時に、大学生など若者にバックパッカーが流行らなくなった結果、出てきた言葉でしょうか。