大木神父奮戦記

学生の頃ネパールを旅したかった理由の一つが大木神父の存在でした。ネパールへ渡られ、その後、障がい児教育の施設をポカラで運営されるようになったと耳にしていました。ポカラとはどんな場所なのか、見に行きたかったのでした。その大木神父のネパールでの経緯などを綴った本が出版されています。

大木神父奮戦記

大木章次郎語り下ろし製作委員会
小学館スクウェア ¥1428(税別)
2011年7月15日第1刷発行

イエズス会の大木章次郎神父が1977年ネパールに渡り、1979年からポカラで障がい児教育センターであるシシュ・ビカス・ケンドラを、小さな平屋の家を借りて試行錯誤しながら始められました。ネパールはヒンズー教の国であり、それまでは、障がい者というのは前世の罪の結果生まれてきた隠すべき者というように考えられていました。その様な価値観を持つ人々が多いネパールで、障がい児への教育に取り組まれたことは、並大抵の苦労ではなかったはずです。しかも、政府はキリスト教を非常に警戒しており、宣教をしようとしているのではないかと疑ってキリスト教の団体には圧力をかけていました。

江口美由紀さん「大木神父からの聞き書き」の形で原稿をまとめられた本です。ビザの問題、資金の問題、政府からの圧力のエピソード、マオイスト(共産党毛沢東主義派)からの殺人予告などを語られておられます。 ネパールの政情はとても不安定です。大木神父に対するマオイストからの殺人予告だけではなく、実際に首都カトマンズではカトリック教会の爆破事件も起きたりしました。この本で語られている以上に、ヒンズー教とキリスト教の間には様々な葛藤があるようで、ご苦労が行間からも読めます。 日本では、大木神父の窮状を経済面からでも支援しようと、倉光誠一氏「ポカラの会」を立ち上げられ、集まった寄付を神父に送り支援される様になったのです。その後、曾野綾子さん主宰される海外法人宣教者活動援助後援会も、施設の拡張に援助を申し出られたとのことです。さらに、スタッフが独立して、シシュ・ビカス・ケンドラを卒業した後を受け入れる障がい者施設、セワ・ケンドラも誕生しました。こちらにも日本人のサポーターグループが有り支援をされているとのことです。また、子供がいるために母親が働きに出られない貧しい母子家庭の子供を、母親が働いている間預かるジョティー・ケンドラも、経営に必要な資金をポカラの会が出すことで始められたそうです。こちらではシスター川岡が奮闘されておられました。さらに、貧しい人たちの診療を自分たちでしたいと、あるネパール人の青年がシッダールタ・クラブというNPOを作り、会費を集め、ボランティアの医師に診療を頼むようになりました。しかし、金銭面の問題から、シッダールタ・クラブもポカラの会の援助無しでは運営できない状況もあったようです。神父の意思を継いで、ポカラにヒマラヤの見える教会を建てる計画も、教会建設支援の会が立ちあげられ、支援を集められました。神父は2009年イエズス会から帰国指示が出され、後進に道を譲って帰国されました。ポカラの会もその趣旨を継続するため、神父の帰国を機に、「新ポカラの会」として再出発されました。 「ポカラの会」「新ポカラの会」は倉光誠一氏が、ご高齢にもかかわらず、私費でネパールに行き来されて支えて来られました。web siteも個人で立ち上げておられましたが、同氏は2014年突然の病でご帰天され、大木神父も2015年ご帰天されました。その意思は、「ニューポカラの会」に引き継がれています。

大阪で食べるスリランカカレー

ワンプレートで供されることの多いスリランカカレー、見た目も綺麗で、食べやすく、美味しく、2016年のマイブームでした。何故今までその魅力に気が付かなかったのでしょう。巷でもブームになりつつあり、お店が増えてきています。記載順は訪れた順です。どのお店も魅力的です。

カレーやデッカオ

大阪市中央区南船場3-8-5 南船場ビル2F
https://www.facebook.com/dekkao

船場方面に用事で出かけた際に入ったお店で、私にとってスリランカカレーへの入口です。スリランカセットをいただきました。訪れた日は日替わりのキーマカレーが売り切れ、ポークカレーでした。

SRI LANKAN DINING AMAYA
スリランカダイニング アマヤ 本町店

大阪市中央区久太郎町3-1-22 OSKビル1F
https://www.facebook.com/SRI-LANKAN-DINING-AMAYA

日を置かず出かけたお店がここでした。スリランカカレーへの興味を加速させてくれました。日替わりカレーにカレーが追加できるあいがけを頂いたのが始まりです。ビルの通路を奥に進んでようやく見つけることが出来る小さな食堂といった佇まいです。曜日によって供されるものが異なります。とある日はビリヤニでした。

RASAHALA  ラサハラ

大阪市淀川区東三国4-17-6
https://ja-jp.facebook.com/RASAHALA/

東三国の駅からすぐのお店です。ランチメニューの中から、セイロンプレートを、キーマカレーを選んで頂きました。ポヤデー(満月の日)にはスペシャルベジタブルプレートが供されます。

NUWARAKADE ヌワラカデ

大阪市西区江之子島1-6-8
https://ja-jp.facebook.com/roddagroup/

NUWARA プレートをバスマティーライスに変更し、カレーはマトンを選択しました。マトンを選んだせいか、辛いの大丈夫ですかと聞かれました。

Ceylon Curry セイロンカリー

大阪市中央区南船場1-13-4
https://ja-jp.facebook.com/ceyloncurry/

定番のアンブラです。マトンを選び、バスマティライスに変更、フィッシュカレーのミニカレー追加をお願いしました。初めて訪れた際は、このアンブラではなく、蓮の葉に包んだランプライスを頂きました。週末などスペシャルメニューが登場する様です。

Shanthi Lanka シャンティランカ

宝塚市平井2-7-11
https://twitter.com/shanthi_lanka

大阪ではなく兵庫になりますが、阪急宝塚線の山本駅からすぐにあるお店を訪ねました。近所のママ友の集まりらしきグループ2組に挟まれて食べてきました。ランチCセットはデザートと飲み物も付きます。

PONGALA CURRY ポンガラカレー

大阪市北区角田町8-47 阪急サン広場B1F
http://www.pongalacurry.com/

阪急百貨店の地下1階の真向かいという絶好の場所にあり、通し営業されているので遅めの昼食にも便利です。バスマティライス、マトンへの変更可能なスリランカプレートをまずいただきました。再訪の際は、ポンガラプレートをいただきました。

SIGIRIYA シーギリヤ

大阪市西区立売堀4-7-15
https://ja-jp.facebook.com/sigiriya.jp/

 スペシャルライス&カレープレートをマトンマレーで頂きました。

RODDA group ロッダグループ

大阪市西区千代崎1-23-9
https://ja-jp.facebook.com/roddagroup/

NUWARAKADEの方に先に訪れ、本店?のこちらにうかがう機会がなかったのですが、年末に念願が叶いました。もちろん、というかこの日はギャミラサのみのメニューでしたので、マトンをいただきました。

AMBALAMA アンバラマ

大阪市北区中崎町3-5-14

アンバラマプレートをマトンカレー、バスマティライスに変更していただきました。綺麗な店舗ですが、隣のライブ?からの音がよく響きます。

<2018年1月追記>

その後も折を見て、美味しいスリランカ料理を頂きに伺っています。
→スリランカカレー(大阪、兵庫)スリランカ料理

ペルー、ボリビア、ブラジル1988 気の向くままに一人旅

遺跡を訪ねて、中国、ネパール、インドと旅した後、仕事に就く前の最後のチャンスに、アルバイトで貯めていたお金をつぎ込んで、南米に旅立ちました。世界遺産がまだ大きく取り上げられる前でしたが、一番の興味はマチュピチュでした。サイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んでいく」を小学生の頃に耳にしてからの憧れの南米です。ペルーとボリビアをメインに、ガラパゴス島かイースター島もと欲張って考えてはみたものの結局は無難なブラジルを追加することにしました。予防接種記録が必要とされる国もあったので、黄熱病の予防接種も受けての出発です。ペルーではインカの遺跡とアマゾンのジャングルツアーがメインで、チチカカ湖まで進めばボリビアには辿り着けるか位の心積りでした。ブラジルは景観と街を訪ねる旅となり、イグアスの滝は必須でした。大都会のサンパウロとリオデジャネイロ、地方都市のサルバドールの組み合わせにしました。

格安チケットを探し、バックパッキングでの旅でしたが、中国、インド、ネパールの旅行でほぼ自分なりの旅の方法が決まってきていました。何ヶ月もかけての旅ではないので、効率を優先し、飛行機は使える限り使いました。宿を見つけるのも結構な手間になりますので、1ヶ所に数日滞在しその周辺を訪ねるやり方に自然となっていました。宿の予約は一切しませんでした。部屋に荷物を置いて動き回るので、ドミトリーは使わず、安宿で鍵のかかる部屋を探しました。周辺への足は、ペルー、ボリビアでは地元の小さな旅行会社のツアーを利用し、ブラジルの街中では路線バスを使いました。治安情勢も当時と今とでは違うでしょうが、リスク回避は最優先で、路線バスを使う際には必ずバスの前方、運転手のすぐ側にしか乗りませんでした。

この旅も狭義のバックパッカーとは違う旅ですが、自身にはこれが最も楽しめる形にすっかりなっていました。もう30年近い前の話ですので、概要のみ記します。

Day 1
格安チケットのため大阪伊丹空港から成田経由でロサンゼルスまで。当時全日空が路線を開設したばかりで値段が安かったのです。ロサンゼルスはダウンタウン近くの安モーテルで1泊しました。南米までのチケットをピックアップすべき旅行会社がダウンタウンにあったのがその理由です。8年後にそのロサンゼルス近郊に住むことになろうとは想像もしませんでした。

Day 2
LaxからPeruの首都Limaまでブラジルの航空会社Varig航空で飛びました。Varigを選んだのはLax→Lima→Rio→Laxの国際線とともにBrasil国内の数本のフライトに使えるパスが買えたからです。Limaには深夜到着ですので空港でそのまま夜を過ごしました。街に出るよりは空港内の方が安全と考えました。結構な数の人が空港内で夜明けを待っていました。

Day 3
朝早い便、7時頃の便でLimaからCuzcoへ飛びました。飛行機はFaucett航空で、これも4本のフライトに使えるパスを購入しておきました。Lima→Cuzco→Lima→Iquitos→Limaと一応予約は入れておきましたが、後々Cuzco→Limaはキャンセルすることとなりました。 Cuzcoはとても標高が高い所に在りますので睡眠不足の体にはきつかった覚えがあります。宿を見つけてとりあえず昼過ぎまで寝て、疲れを少しでもとることにしました。目が覚め、身体ならしに街外れにあるSacsayhuamanの遺跡まで散歩しました。

Day 4
午前中は市内を歩き回ります。小さな街ですのでガイドブック片手にのんびり歩いて回ることができます。午後から小さなマイクロバスで回るツアーを前日に予約しておきました。Sacsayhuaman、Puka Pukara、Tambomachai、Quenkoの遺跡を回ってくれます。ツアーの客層は主にペルー人のようで、ガイドは英語とスペイン語を話してくれますが、英語の説明を聞く客は私のみです。

Day 5
いよいよMachu Picchuに出発です。Ollantaytamboまでバスで行って列車に乗り換えます。今は外国人専用の素晴らしい客車も走っている様ですが、当時はトイレが汚すぎて使えない、そんな客車でした。その列車で麓の駅まで行って、そこからは曲がりくねった道を登っていくバスに乗り換えです。遺跡で、しばし散策です。小学生の頃からの期待を裏切らない素晴らしい景色でした。帰りは来たルートを帰りますが、列車でそのままCuzcoまで帰りますした。

Day 6
また前々日に予約しておいた小さなバスで回るツアーです。Pisacの青空市場、Ollyantaitamboの遺跡、Chincheroの市場などを回りました。

Day 7
CuzcoからやはりBoliviaに陸路で行くことにし、まずTiticaca湖畔のPunoまで列車で移動です。朝出て一日がかりで夜にPunoに到着しました。途中通過する最高点は海抜4315メートルです。Punoには暗くなってからの到着ですので、少し宿探しに苦労しました。

Day 8
午前中はPuno市内散策です。ここも小さな街ですので歩いて回れます。午後はバスでSillustaniの遺跡に出かけました。荒野にある寂しさを誘う遺跡です。宿の主人にBoliviaの査証の取り方を教わり、お願いすることにしました。入国には査証は必要でしたが、ボリビアにたどり着くか分からず、また現地で何とかなるとの話もありましたので、日本では用意していませんでした。

Day 9
Titicaca湖の探検に出かけました。葦の浮島で有名なUros島とTaquile島観光です。Uros島は完全に観光地と化しています。Taquile島では船を降りたら階段を登って勝手に散策です。Titicaca湖を360度望める場所に座ってただゆっくりと時間を過ごすのも良いものでした。

Day 10
PunoからBoliviaの首都La Pazまではバスで移動でした。途中国境の手前の街Copacabanaでバスを乗り換える必要があります。湖をバスが船にのって渡るところがあります。夕刻にようやくLa Paz到着です。標高が高いので結構寒く、宿を探すときは暖房が効くかを確認しました。

Day 11
La Paz市内散策です。沢山の博物館がありますので、これらを訪ねて回りました。Museo National de Arte、Museo del Litoral Boliviano、Museo de Metales Preciososなどです。

Day 12
Tiahuanaco遺跡に出かけます。午後はValle de la Lunaにも行きました。 本来はCuzcoからLimaに戻る予定でしたが、Cusco→Puno→La Pazと東進しました。Cuscoまで陸路戻るには時間がないので、La Paz→Lima間のボリビア航空Lloydo Aereo Bolivianoのフライトを急遽購入しました。Faucett航空のCusco→Limaをキャンセルしてしまうと、その先のLima→Iquitosも勝手にキャンセルされてしまうのではという点が気がかりでした。Lima→Iquitosは搭乗する旨リコンファームの連絡は入れましたが、空港で実際に手続きするまでは不安は拭い去れませんでした。勝手にキャンセルされることなく、大丈夫でした。

Day 13
La Paz→Lima間は前述のボリビア航空Lloydo Aereo Bolivianoでチチカカ湖の上を飛び、さらにLimaからIquitosまで、もともとの予約を使ってFaucett航空で移動です。Iquitosの空港を出た所にはJungle Tourの客引きが沢山待っています。その中から一つの旅行会社Queen Adventure社のTourを選びました。とりあえずこの夜はIquitos市内のホテルを探して宿泊です。

Day 14
2泊3日のJungle Tourに出発です。港からモーターボート程度の船で1時間余り、川岸で船を降りてしばし歩くとキャンプ地に着きました。キャンプ地といってもいくつかの建物を備えた、少しだけ文明的なものです。シャワーは水シャワーです。電気はありません。

Day 15
昼間はジャングルの中の散歩やカヌーで細い支流を探検です。夜は大毒蜘蛛タランチュラを探しにジャングル散歩に出かけました。客は個人客計3人だけで、ガイドを交えて、夜は酒宴で更けていきました。

Day 16
二日酔いの頭をかかえて近くの漁師の家まで散歩です。獲った魚などみせてもらいました。その後Limaへ向けて出発です。Faucett航空です。

Day 17 & Day 18
Lima市内散策です。多くの博物館などがあり一つ一つ訪れて行きます。それぞれ結構時間かかりました。

Day 19
Pachacamacの遺跡までバスで出かけました。あまりに広大というかゆっくり歩いて回るといった遺跡ではなさそうです。

Day 20
せっかくここまで来たのだからNascaの地上絵も見逃せば後悔するという気持ちになり、大枚はたいて日帰りすることにしました。Limaの空港からセスナでNascaまで、そこでもう一度飛行機乗り換え地上絵を真上から見学です。この時の昼食は現地のセスナでの観光が済んでからにしろというアドバイスの意味がよくわかりました。地上絵が良く見えるようにセスナは右へ左へと旋回を繰り返し、嘔吐一歩手前といった状態です。飛行機を降り昼食をとって、小さな博物館見たりして、またLimaまで戻りました。 深夜のVarig航空でPeruを後にしてBrazilに出発です。  PeruではCuzcoの高地と、Iquitosの熱帯雨林、Nascaの砂漠地帯と違った気候の場所を楽しむことが出来ました。Boliviaは最近ウユニ塩湖がテレビ番組でもよく登場するようになりましたが、当時はそこまで足を延ばす時間もお金もありませんでした。La Pazの街中と周辺の遺跡だけでも十分楽しめました。食事もあまり違和感なく美味しく食べていました。特に少し油と塩を入れて炊いたご飯の味を気に入って食べていました。またロモサルタードLomo Saltadoは焼肉定食といった感じで食べやすかった覚えがあります。

Day 21
Rio de Janeiroで乗り換えSalvadorまで一気に行ってしまいます。Africaから人々が奴隷として連れてこられた港町Salvadorはバイーア地方の中心都市であり、African-Brazilianの文化を知ることができるAfrica系の人々の街です。湿気もすごく、旅の疲れがでてきていたので2泊の予定を1泊に変更することにし、宿を決め、Valigで予約変更の手続きをした後はとりあえず街の散策です。この街は崖の上と下の2つからなっており、エレベーターで行き来できます。

Day 22
Sao Pauloに飛行機で移動です。日本人街の近くで宿を探し久々の日本食も食します。

Day 23 & Day 24
Sao Paulo市内散策です。Placa de Se, Catedral Metropolitanas, Instituo Butanta, Museu de Arte de Sao Paulo, Museu Lasar Segall, Museu Paulista, Parque da Independencia, Parque Ibirapuera, Museu de Arte Moderna, Bairro Oriental, 日本移民資料館などを足早に見て回りました。

Day 25
Sao PauloからFoz do Iguacuへ飛行機で移動します。宿を探して荷物を下ろした後は早速Brazil側の滝に行きます。宿をバスターミナルのすぐそばにとったので、ここでの路線バスでの移動にとても便利でした。

Day 26
Itaipuダムを見に行きます。世界最大?のこのダムはさすがに大きいです。

Day 27
Argentina側の滝を見に行きます。ここでも路線バスを乗り継いでいきます。悪魔ののど笛を覗きこむ位置にある展望台からの眺めもすばらしいものです。途中で見ることのできる滝の風景も綺麗です。

Day 28
Paraguayの街Puerto Pres Stroessnerへ行ってみました。午後飛行機でRio de Janeiroへ移動しました。

Day 29 & Day 30 & Day 31
Rio de Janeiro市内散策です。Morro do Corcovado 両手を広げたキリスト像が立つコルコバードの丘とPao de Acucar ぽつんと突き出た岩山は眺望がとても良いです。Museu Nacional de Belas Artes, Museu Historico Nacional, Museu Nacionalなどの博物館なども見て回ります。Estadio Maracana マラカナスタジアムはブラジルサッカー場の代表的存在で、2016年のリオオリンピックの開会式などが行われた場所です。フラメンゴの試合を見に行きましたが当時の大エース、後の日本代表監督となったジーコは故障欠場でした。 市内の移動は、専ら路線バスでした。地図をよく見ておき、バス停では乗りたいバスの番号をよく見て手を上げてつかまえ、降りる場所も言葉がよく分からないので周囲をキョロキョロして判断しました。唯一のトラブルがそのサッカーの試合の帰りに起きました。夜遅くでしたが、スタジアム前から路線バスに乗りました。イパネマ方面へ帰るはずのバスに乗り、終着点に着いたのですが、そこは全く違う場所でした。バスの行き先表示が最初から間違っていたのでした。深夜に近い時間に、知らない場所に放り出された同じ境遇のブラジル人(おそらくリオに詳しくない地方からの人達だったのでしょう)が何人もいて、皆で運転手に怒りをぶつけていました。

Day 32
Laxへ向けて出発です。さらに乗りついで、成田経由で戻ってきました。偶々同級生の一人と成田空港で出会いました。彼もブラジルを旅していたとのことでした。

スペイン語圏のPeru、Boliviaからポルトガル語圏のBrazilへ移動したとき、空港でのポルトガル語でのアナウンスで違う国に移動したと実感した覚えがあります。ボサノバのポルトガル語の響きが気に入り、帰国してから沢山のCDを買いました。

中国1986 ネパール、インド1987 バックパッカーとフラッシュパッカー

中国への個人旅行 1986

1980年代後半、学生時代に出かけた最初の海外旅行の行先は中国でした。中国への個人旅行がようやく可能になった頃です。ビザの関係から、香港から広州へ団体旅行で入る形を取り、以降は各個人が自由に旅行するというものでした。「地球の歩き方」を手に、「格安航空券」を使って旅する「バックパッカーもどき」のデビューでした。

広州から西安へ飛行機を使い、そこから鉄道で西安→洛陽→鄭州→上海と移動することにしました。バックパッカーとは、別の意味では、移動手段と宿の確保の連続です。宿の確保はまだしも、鉄道のチケットの確保は想像以上の混沌の中でした。ようやく窓口に辿りついても「没有」の一言で終わりです。目的のチケットの確保には多大の時間と労力を費やしました。正統派?バックパッカーからすればそんな事は当たり前と言われそうですが、限られた時間で旅行をする身にはこの時間は節約したいと思いました。宿泊も正統派?バックパッカーにはこれまた怒られますが、気ままに旅行したいのに他人に気遣うドミトリーは避けたく、質素ながらも鍵のかかる部屋に泊まりました。盗難などのトラブルも避けたい意味もありました。

インド、ネパールへの一人旅 1987

中国から戻ると、すぐに次の目的地への計画です。気持ちはインド、ネパールしかありませんでした。翌年の春休みの18日間が、使えるすべてでしたので、主な移動手段はすべて飛行機にしました。格安航空券は大阪→香港(1泊)→カトマンズの往復です。ネパール国内線の、カトマンズとポカラ間の往復の航空券もとっておきました。カトマンズから先は、カトマンズ→バラナシ→カジュラホ→デリー→ボンベイ(ムンバイ)→オーランガバード→マドラス(チェンナイ)→マドゥライ→カルカッタ(コルカタ)→カトマンズをIndian airlinesの現地のオフィスで繋げてもらいました。外国人向けの周遊航空券のカテゴリーのものを使った様な記憶があります。荷物はバックパッキングで出かけ、宿は行き当たりばったりの安宿泊まりでしたが、自身でも狭義のバックパッカーとは違うと思っていました。

フラッシュパッカーとバックパッカー

最近、「フラッシュパッカー」なる言葉があることを知りました。定義としてはバックパッカーよりも少し金銭的に余裕のある旅行者を指すようです。『基本的に格安旅行だが、ドミトリーは嫌なので少し宿代にお金を出す、あるいは時間節約に飛行機を移動手段に使うのにお金を使う。』のも含まれるなら、私の学生時代のこれらの旅のスタイルもこの言葉に近いのでしょう。スマホなどを片手にネットの情報を得ながらという定義であれば、もちろん程遠いものですが。

個人でみれば、年を取れば旅に使える日数やお金も変わり、旅の方法も変わっていきます。社会全体でみた時に、大学生など若者にバックパッカーが流行らなくなった結果、出てきた言葉でしょうか。