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ヴィンギエム寺 永厳寺 Chua Vinh Nghiem (Ho Chi Minh City)

ヴィンギエム寺 永厳寺 Chùa Vĩnh Nghiêm を訪れました。1964年から1971年にかけて建立されたコンクリート建築の寺院です。日本にゆかりがあることでも知られています。門をくぐり、本堂へは階段を登っていきます。

中ではお勤めがされていました。

手前には七重の塔もあります。

ヴィンギエム寺(永厳寺)
Chùa Vĩnh Nghiêm

ラームプー @ タイキック THAI KICK(豊中市)

12月3日に旧店舗からすぐ北のところに新店舗をオープンされた「タイキック Thai Kick」さんへ年末に伺いました。旧店舗よりテーブル席が増えました。豚ひき肉のスパイシーハーブ和え ลาบหมู ラームプーをタイのもち米 ข้าวเหนียว カオニャオと一緒にお願いし、イカの海老味噌炒め ปลาหมึกผัดกะปิ ムックパットカピ、海老入りタイ焼きそば ผัดไทย パッタイと頂きました。

阪急宝塚線豊中駅からほど近いお店で頂ける美味しい料理の数々は →「タイキック THAI KICK (豊中市)」

タイキック THAI KICK

豊中市本町 4-1-27

ダルバート @ ヤク & イエティ Yak & Yeti (京都市中京区)

阪急京都線河原町駅から近い「ヤク & イエティ Yak & Yeti」さんへ初めて、ランチタイムに伺いました。ダルバートをマトンの選択でお願いしました。ダルはチャナとムスロのミックスで粒感が少し有ります。マトンは肉量もしっかりあり、セミドライのタイプでダルバートにぴったりです。人参と胡瓜のスライス、トマトのアチャール、大根のアチャール、小松菜、キャベツと韮と並びます、ヨーグルトも付きます。食後にチヤを追加でお願いしました。

ヤク & イエティ Yak & Yeti 

京都市中京区御幸町通錦小路下ル大日町 403‐2
詩の小路 PLUSビル 1F

パティス @ スリランカキッチン クルンドゥ (京都市左京区)

年末の最終営業日のランチタイムに「スリランカキッチン クルンドゥ」さんへ伺いました。ライス&カリーを、メインをマトンで、ご飯を赤米に変更で頂きました。 お店のインスタグラムで පැටිස් パティス Patties の用意もあるとお知らせされていましたので、トッピングでお願いしました。この日の副菜は、レンズ豆カリー、三つ葉と春菊のココナッツ和え、じゃが芋スパイス炒め、揚げ茄子のマスタード炒め、小松菜のスパイス炒め、人参のココナッツ炒めと並びます。食後に紅茶を追加で頂きました。

京都大学近くのお店で頂ける美味しい料理の数々は →「スリランカキッチン クルンドゥ (京都市左京区)」

スリランカキッチン クルンドゥ

京都市左京区吉田中阿達町 33-15

https://www.instagram.com/kurundu3315/

新年のお祝いスペシャルダルバート 2020年 @ ネパールのごちそう jujudhau ズーズーダゥ (池田市)

「ネパールのごちそう jujudhau ズーズーダゥ」さんのスペシャルダルバート、各所に趣向が凝らされた新年のお祝いバージョンでした。ダルはマスとムスロ、マスは栗入りチキン、タルカリはマショウラ、じゃが芋、カリフラワーの茎と葉のグンドゥルック、アチャールは何時もの 3種類から 5種類に増え、果物シリーズは洋梨のアチャール、大根とネパール産の干しレモンのアチャール、カリフラワーとブロッコリー、西洋わさびとエシャロットのアチャール、干し柿と胡桃のアチャールと並びます。大根とレモネードレモン、青菜炒めサグ、パパドゥがご飯の傍らに添えられ、上には長芋のスパイス炒めと、サクサクのお米も頂くことが出来る揚げた稲穂がのせられています。この日は、チキンティッカも追加で頂きました。デザートは、ククリラムに漬けたレーズン入り、金箔のせのズーズーダゥ、最後にチヤを頂きました。

阪急宝塚線池田駅すぐのお店で頂ける、美味しい料理の数々は
→「jujudhau ズーズーダゥ(池田市)ネパールのごちそう」

ネパールのごちそう
jujudhau
ズーズーダゥ

池田市室町1-3
https://ja-jp.facebook.com/jujudhaunepal/

バインダークア Banh Da Cua @ Banh Da Cua Di Ly (Ho Chi Minh City)

ベトナム北部ハイフォン Hải Phòng 名物のバインダークア Bánh Đa Cua を頂けるお店はホーチミンにも数々あります。その中の一つ「Bánh Đa Cua Dì Lý」さんへ伺いました。ホーチミンの地ビール、PASTEUR STREET BREWING Co. の 2種類のビール、IPA 6.5% ABA と Passion Fruit Wheat Ale 4% ABA の両者の飲み比べをしました。お店の名前にもついているバインダークアをお願いします。サトウキビを練りこんだ平らな麺に蟹の出汁のスープ、さつま揚げ Chả Cá、ソーセージ Chả lụa、挽き肉のロット葉巻き Lá lốt 等の定番が載っています。ブンティットヌンチャーゾー Bún thịt nướng chả giò も頂きました。ドンコイ通りにも 2号店があるらしい事を後から知りました。

Bánh Đa Cua Dì Lý

138 Hai Bà Trưng, Đa Kao, Quận 1, HCMC

観光コースではないサイゴン(ホーチミン) 野島和男著 高文研

観光コースではないサイゴン(ホーチミン)
もっと深い旅をしよう Another Saigon

野島和夫著
高文研
2017年7月25日第一刷発行

ベトナム人の妻と共に40歳代からホーチミンで暮らす著者は、あとがきで以下のように記しています。

長く暮らすうちに、こちらの人からさまざまな話を聞きました。そのなかでわたしが興味を持ったのはサイゴン時代の話でした。「今は図書館だけど以前は刑務所で中庭にはギロチンがあったんだ」というような話を聞き、それを歴史書や古地図などで確認してから記事を書く。その作業を繰り返すうちにおぼろげながら昔のサイゴンが見えてきました。また、このことはわたしが誤解していたベトナム観を解き、こちらの人たちを理解するための一助ともなりました。薄皮が一枚づつはがれていくようにベトナム人の心情が共有できるようになりました。

『序章 なぜ「サイゴン」なのか』と『第一章 サイゴンの成立と近代文明化』で、ベトナムの歴史、サイゴンの歴史が記され、『第二章 サイゴンの表玄関 メーリン広場から』では、かつて大桟橋がありサイゴンの表玄関であったメ―リン広場から案内が始まり、『第三章 レ・ズアン通りとグエンフェ通り』へと進みます。いずれも史実が併せて記されており、単なる観光案内ではなく、サイゴンの歴史を知ることが出来るようになっています。『第四章 パスツール研究所と海軍病院』、『第五章 チョロン』と進みます。『第六章 統一会堂(旧大統領官邸)』では、再度ベトナム戦争に関する歴史がちりばめられています。

四月三十日正午、人民軍のT型戦車が官邸の門扉を破って突入した。この時の映像は、日本でも数多く紹介されている。しかし、初めて官邸に突入したのはこの戦車ではない。戦車が突入する前には撮影隊が入ってカメラを構えている。カメラの準備ができてから”スタート”の合図とともに戦車は入った。しかし、最初に入った戦車は中国製だったため政治的配慮からNGとなった。次にソ連製の戦車がすでに開いている正門の東側へ入ったところを撮影した。このときはテストや予備を含めて合計五回ほど戦車は突入したそうだ。

共産革命はずっと背後に隠され民族独立だけが前面に押し出された戦争も、結局は主たるところは共産革命であったことが明らかとなります。その背後にいた北ベトナム、中国、ソ連の三者の関係を、この文章が語っています。(下の写真は、戦争証跡博物館の展示)サイゴン政権の重鎮たち、ゴ・ジン・ジェムと弟のヌーの遺体のその後、マダム・ヌー、グエン・バン・チュー、グエン・カオ・キー、ズオン・バン・ミン達のその後の消息も記されています。興味深いのは、かねてからの北との密約により1975年4月8日に大統領官邸を南ベトナム空軍機で爆撃したグエン・タン・チュンがその後ベトナム航空で重用され、副社長まで上りつめた事です。まさに恩功労賞です。

『第七章 鉄道』、『第八章 ブンダウ』と続き、『第九章 サイゴンの終焉』では自身の妻の実家の話と、その兄が終戦後にボートピープルとなった経緯が記されています。

ホーチミン作戦博物館 Bao tang Chien dich Ho Chi Minh

ホーチミン作戦博物館 Bảo tàng Chiến dịch Hồ Chí Minh (Ho Chi Minh Campaign Museum) を訪ねました。屋外の展示エリアと、2階建てで冷房が効いておらず窓が開け放たれた建物の屋内展示エリアからなります。建物に入ると、ホーチミン氏の像と代表的な言葉 không có gì quý hơn độc lập tự do ”Nothing is more precious than independence and freedom.” 「独立と自由ほど、尊いものはない。」が迎えます。展示の説明はほぼベトナム語のみで、英語での説明書きはわずかのみです。ベトナム戦争における各作戦の詳細が展示されており、ズオン・バン・ミンDương Văn Minh 大統領の降伏の放送を聞く、解放軍の高官たちの様子が再現されていたり、そのズオン・バン・ミン大統領が降伏後、建物から出てくるシーンの再現があったりします。屋外の展示では、1975年4月8日に大統領宮殿を爆撃したF5型戦闘機や、1975年4月30日に大統領宮殿に突入したT54型戦車(車番848)、解放を祝う兵士の像などが置かれています。

ホーチミン作戦博物館
Bảo tàng Chiến dịch Hồ Chí Minh
Ho Chi Minh Campaign Museum

ベトナム報道1300日 ある社会の終焉 古森義久著 講談社文庫

ベトナム報道1300日
ある社会の終焉

古森義久著
講談社文庫
昭和60年4月15日第1刷発行

著者が文庫版あとがきにて

ベトナム戦争中、日本ではわがマスコミをはじめ多くの向きが、この戦争の実態について重大な誤認をおかしていたことがいまではすでに明白となっている。たとえば闘争の主役は一貫して北ベトナム軍であったのに、「この戦争は南独自の解放勢力による闘争で、北は直接、軍隊を送っていない」と断じたことや、北ベトナムにははじめから南ベトナム政府を軍事粉砕する方針しかなかったのに、「戦争の交渉解決を」と叫びつづけたことなど、その一端である。

と述べている様に、歴史を振り返った時にベトナム戦争は何であったかを、時世に流されて報道した他のマスコミとは一線を画し、ジャーナリストとして的確に事実を把握、伝えようとした記録です。

これまでは国際問題についていかに間違った、ゆがんだ評価を声高に語りつづけても、その間違いを後から指摘されることはまずなかった。いかに公式の場や活字によって、結果としての大間違いのコメントをしても、その非を責められることはなく、ミスをおかした人物が、そのメディアが、何の修正もせずに、また新たな問題について、これまた結果として間違いの論評を堂々とする、というケースが少なくなかったのである。

とも記し、過去および当時のメディアを厳しい目で評している点は、事実を正しく伝えないばかりか、特定のイディオロギーに基づいた誤った情報を発信する、過去および現在のメディアをも評している様に思えます。

後に72年春季大攻勢と呼ばれた、北ベトナム「南」解放戦線軍による全国規模の激しい軍事攻勢が行われた直後の1972年4月にサイゴン特派員として赴任、前線での取材なども行います。北爆を実施する米航空母艦の取材した際、パロットとの会見での様子を描写するとともに、次のようなパイロットの言葉を記しています。

アメリカ国民はベトナムの実態について完全に誤解している。それは主にマスコミの責任だ。反戦運動で四十人の学生が大学の建物を占拠しても大きく報道されるが、五千人の南ベトナム人が北軍の砲撃を受け殺傷されてもほとんど無視される

報道のあり方が、如何に偏り、かつ北を利するものであったかについて

報道陣はアメリカ流の「言論の自由」を常に錦の御旗として、軍の報道規制もなんのその、ただひたすら真実を追う。群が隠そうとする機密でも「公共の知る権利」のためにあくなき追及を繰り返し、あばいてしまう。それが正しい、あるべき報道機関の態度であり存在意義だ、と賞賛される。しかし向こう側にいる戦争当事者、つまり敵にとってこんなありがたい、また貴重な情報源は無い。(中略)そして実際に、南ベトナムの密林にひそむ北の主力軍が、ハノイを経由し伝わってくるサイゴン発の西側通信社などの報道をいかに頼りにしていたかは、後に北ベトナム軍の完全勝利後、参謀総長のバン・チエン・ズン将軍が長大な回顧論文の中で、はからずも明らかにしてくれた。

と、はっきりと理解するまでには、氏自身も4年を要したとのことです。その後、和平協定が発効して60日目の1973年3月29日、最後の米軍部隊が南ベトナムを去る日には、タンソンニュット基地で儀式を見守ります。

南ベトナム社会の平均的な人たちとの接触を重ねるうちに、市民の「チュー政権(南ベトナム政府)も嫌だが、北ベトナムや解放戦線はもっといやだ」という「反チューかつ反共」の反応に気付かされます。政治家や学者の話を聞き、

抗仏の民族独立闘争の初期には、右派から左派まで様々な民族主義勢力が合体し、ゆるやかながら抗仏連合戦線を結成していた。ところが史実として知られるように、ホー・チ・ミン主席の率いる共産党がその連合戦線の中で着実に他派を排除して民族自決の闘争を独占していった。マルクス・レーニン主義を信奉することなしに民族独立を達成しようとする各勢力は暗殺や欺瞞を」含むありとあらゆる手段で「民族主義陣営」から除去された。民族主義者であっても同時に共産主義者でなければ、「真の民族主義者」たりえないというベトナムの闘争独特の規範が形成されていったのである。

とまとめています。このことを踏まえ、

ベトナムの民族闘争は言うまでもなく民族独立と共産主義革命という二つの大目標を目ざしていた。(中略)しかし長い闘争の期間中、二つの大目標のうちの一つ、共産革命はずっと背後に隠され民族独立だけが前面に押し出された。現代社会では植民地主義、他国支配を悪とすることに反論はない。従ってその「悪」を排除する民族解放闘争の正義は誰もがうなずく「自明の理」である。しかし共産主義革命も同様に自明の正義かどうか、これにはまだ全世界のコンセンサスはない。だから自明の正義である民族解放だけを前面に掲げ、議論の余地のある共産主義革命を後方に引っ込めるのは闘争への国内、国外からの幅広い支援を得るためには非常に賢明な戦略であった。

とベトナム戦争の本質を解説します。

1974年1月、革命政府支配区(解放区)への10日間の潜入取材も果たします。北の正規軍の関与について、

解放政府地区を防御する人民解放軍主力の実態は、やはり北ベトナムから南下してきた正規軍師団であった。(中略)アメリカ、サイゴン政府軍は一貫して南ベトナムの革命闘争は北ベトナムが直接総力を投入して実施しており、革命軍の主力は北の正規軍だと、との主張を公にしていた。これに対し北ベトナム、南革命政府側は南での闘争はあくまで南ベトナム独自の勢力により、軍隊も南の人民解放軍だという建前を崩さず、北の正規軍が南に下っていることは公式には絶対に認めようとしなかった。

と結論づけ、通訳としてついてくれた人物から、

南の人民解放軍の正規軍というのは北ベトナムからの正規軍師団であり、その構成メンバーはほぼ全員、北出身の兵士である。たまには南の人間だけで編成した正規軍部隊もあるが数は極く少ない

という言葉を引き出しています。

前出のベトナム人民軍(北ベトナム)参謀総長バン・チエン・ズン大将の回顧録も引用しています。

ズン将軍の戦記は、南での闘争が終始一貫北ベトナムで編成装備され、ハノイからの命令と補給で動く人民軍を主力として推進されたことや、そもそもベトナム民族闘争はマルクス・レーニン主義を信奉するベトナム労働党がすべて指導し実施した経緯を、大胆かつ率直に述べている。また闘争の大目標は民族独立のみならず共産主義革命であり、マルクス・レーニン主義路線を貫いた点にこそ勝利の原因がった、とも断言している。南ベトナムの開放は最初から最後まで武力革命による以外はありえないと決定されていたことも、この戦記は明快に記している。

1975年3月5日にはサイゴン政権のグエン・バン・チュー大統領が、記者団との会見に応じます。北ベトナム軍の攻勢は増し、3月26日フエ(ユエ)が制圧され、3月27日にはクーデター計画が摘発され、3月29日ダナンも陥落、次いで4月1日ニャチャン陥落、4月8日南ベトナム空軍所属の F5 戦闘爆撃機による大統領官邸爆撃、4月9日スアンロクへの大攻撃、4月20日スアンロク陥落、4月21日チュー大統領辞任、チャン・バン・フオン大統領就任と続きます。この間の、何とかして国外に脱出しようとするベトナム人の様子や、すさまじいインフレなども記されています。チャン・バン・フオン大統領がズオン・バン・ミン将軍に政権を引き渡すべく画策する中、4月25日チュー前大統領が国外逃亡します。4月27日サイゴン市内への砲撃が始まります。4月28日ズオン・バン・ミン大統領就任、革命側に呼びかけた即時停戦の交渉を拒否される。4月29日タンソンニュット空港への爆撃、アメリカ政府機関の全面撤退。ミン大統領、再度特使を革命側に派遣し停戦交渉を試みるも拒否される。4月30日正午過ぎ、独立宮殿の正面ゲートを北軍の戦車が打ち破り、革命側が作成した無条件降伏の声明を読み上げさせるために、ミン大統領を放送局に連行。ズン将軍ら北軍首脳はサイゴン北方の前線司令部のラジオでこの降伏声明に耳を傾けます。その直後の、国防省、独立宮殿の中の様子などが描写されています。独立宮殿の正面では、有名な写真、一番乗り戦車の突入場面を再構成し何度も撮影、宮殿内で大階段を突撃していく兵士のシーンの撮影が繰り返し行われていたそうです。(下の写真は「ホーチミン作戦博物館」に展示されている、突入場面)

5月15日の勝利祝賀式典では、「北」が永年、全世界に向かって叫んだ主張を勝利後わずか二週間であっさりと捨て去ります。北ベトナムのナンバー4である、ファム・フン北ベトナム労働党中央員会政治局員が、「南ベトナム」の国家元首に当たるグエン・フー・ト議長や、首相のフィン・タン・ファット氏よりも上位の、革命政権の最高責任者として登場しました。

アメリカは一貫して、南の闘争の中枢は労働党組織だと指摘してきた。「労働党南ベトナム中央司令部」という組織があり、その最高責任者がファム・フン氏だとも断言してきた。(中略)ハノイは無論、こういうアメリカの主張をプロパガンダとして否定し続けた。日本でも多くの人がこのハノイの言い分を支持した。(中略)ところが何のことはない。アメリカが指摘していたとおりの事実をハノイ首脳みずからが公然と示したのである。

その後、日が経つにつれ、人民裁判、軍事裁判、公開銃殺などが実施されるようになり、旧政権の将兵、警官、行政職員にも、明らかな報復としての処刑が頻繁に行われる様になります。旧南ベトナム軍兵士や旧政府の中堅以上の職員の「再教育」も始まり、30万人とも40万人ともいわれる人がトラックで連れ去られた後、何時までも戻ってくることはありませんでした。

南ベトナムを支配することになったはずの臨時革命政府は、不思議なことにいつまでたっても登場してきません。労働党(北ベトナム共産党)がすべてを掌握したままでした。市民への徹底した監視、統制、重圧は市民を悲しませます。また新たな差別も人々を嘆かします。

革命当局は当然のことながら、闘争に直接参加した人間を新社会の支柱とみなし、全面的な特権を与え優遇した。その家族も同様である。(中略)これに対しサイゴン市民の側は、旧政府に特に関係していなくても傀儡政権の支配下に住んでいたとの理由だけで、すべて「劣等ベトナム人」とか「落伍者」と判定されていた。

報道の自由も大きく制限、検閲が厳しくなり、ついに著者への国外退去命令がなされ9月6日サイゴンを離れることになりました。

古森氏は最近、池上彰氏のベトナム戦争に関する記事に関し、「池上彰氏のベトナム戦争論の欠陥」と題し、重要な指摘をされ苦言を呈しておられます。

 

牛肉のメロン炒め Dua xao bo @ フォーコーハー PHO KOHA (神戸市長田区)

「PHỚ KOHA」さんを訪ねると、お店は閉まっており貼り紙がされていました。100メートルと書かれ矢印も印されていましたので、そちらへ歩くと、新店舗で営業されていました。移転当日だったらしく、お花が届けられていました。メニューブックも新しくなっており、黒板メニューは掲げられていません。ポークリブとライスの Cơm sườn nướng をお願いしましたが、この日はご飯ものの用意が無いとの事で、ご飯の代わりにブンで出来ますかと尋ね、Bún sườn nướng を頂く事にしました。牛肉のメロン炒め Dưa xào bò もお願いしましたが、ご飯と一緒に頂きたい一品でした。おまけの写真は旧店舗で頂いた Bún thịt nướng です。